- 研究の思い出
大阪で生まれ、医者を目指して大阪大学医学部に入った。大学5年生の時に、山村雄一先生の話を聞いて、免疫学に関心を持った。1972年に医学部を卒業して山村先生の第3内科に入局した。最初に受け持ったのは、自己免疫疾患のSLE(全身性エリテマトーデス)と肺がんの患者さんだった。しかし、治癒することはできず、医学の限界にぶち当たった。目の前の医療も大事だが、未来の医療のために医学を目指そうと思った。
1973年にアメリカに留学した。学生時代に出入りしていた放射線基礎医学教室の近藤宗平教授の紹介だった。先生は物理学から遺伝学に転進された研究者で、理路整然とした講義は大変興味深かった。
留学先は、ボルチモアにあるAlbert A. Nordin先生の研究室だった(現National Institute on Aging, NIH)。石坂公成先生の研究室に留学されていた、第三内科の先輩の岸本忠三先生や阪大癌研の高津聖志先生らに出会った。
B細胞やT細胞の発見により、免疫学はそれまでの免疫化学の時代から、細胞免疫学へと大きく舵を切りつつある時であった。1971年にワシントンDCで開催された第一回国際免疫学会で、Dutton先生がB細胞に抗体産生を誘導する液性因子の存在を発表。翌年には、Schimpl先生とWecker先生が、B細胞に抗体産生を誘導する液性因子「TRF(T cell replacing factor)」の存在を発表した。留学中は、キラーT細胞に関与する液性因子の研究に取り組んだ。
1976年に第三内科に戻り、78年に大阪府立羽曳野病院(現、大阪はびきの医療センター)に出向した。元結核療養所で、結核患者が多かった。患者の肺にたまった胸水を抜くと、1リッター当たり約10億個のリンパ球がある。研究材料を得るには絶好の環境で、結核菌体成分を与えてリンパ球を培養し、その培養上清をB細胞に加えると、抗体産生を誘導する強い活性があった。
そろそろ阪大に戻れると思った時、山村先生から「学校の先生になる気はないか」といわれ、熊本大学に新設された免疫生化学教室の尾上薫教授の助教授のポストを提示された。1980年、30歳、基礎研究にどっぷりつかることになった。熊大でも後のIL-6につながる液性因子の研究とそのタンパク質精製を続けた。リンパ球は、熊本市内の耳鼻咽喉科の先生方に頼んで、扁桃腺切除した患者から集めた。当時は、IL-2をクローニングした谷口維紹先生のように遺伝子工学が注目され、その手法を取り入れようとしていた。そのころ、阪大細胞工学センター教授に就任された岸本先生から「一緒にやらないか」とお誘いがあり、助教授で阪大に戻ることにした。当時、岸本先生はB細胞に抗体産生を誘導する液性因子の研究をしておられ、競争相手でもあった。
1984年1月から岸本先生と共同研究を開始し、それまでの長年の経験を生かして、年末には電気泳動でシングルバンドまで精製することができた。そして阪大蛋白質研究所の綱澤進先生と一緒に液性因子のN末端の13個の部分的アミノ酸配列決定に成功し、遺伝子単離も時間の問題と思った。しかし、それから生みの苦しみが始まった。1985年は散々の年だった。2月に父親を亡くし、8月には日航ジャンボ機墜落で知人や阪大関係者を失った。N末端のアミノ酸配列をプローブに抗体産生を誘導する液性因子の遺伝子をクローニングしようとしたが、来る日も来る日も目的を果たす事ができなかった。度重なる失敗によるストレスと疲労が重なり、年末にはひどい不整脈になり眠れなくなった。
年明けに友人の循環器専門医に診てもらったら、「心因性」と言われた。こんなことで、人生を棒に振るわけにはいかないと思い直し、100リットルのリンパ球培養上清を集めなおし、一から精製を始めた。居直ったら気持ちが軽くなり、10日間ぐらいで不整脈は治った。2月に本庶佑先生らがIL-4遺伝子を同定したことを発表された。研究室では、IL−4は我々の目指す物質と同じかもしれないという疑心暗鬼にかられ、研究の継続が危ぶまれる事態に追いやられた。しかし、気にせずに山の頂上を目指し無我夢中で研究をつづけた。
3月に、再び液性たんぱく質を精製することができた。N末端の配列だけに基づいたプローブだと従来と同じだと思い、“賭け”にでた。精製タンパクを限定分解して得られる複数のペプチドのN末端配列を同定することにした。限定分解したペプチドを分離するためのカラム操作により全てを失うリスクがあった。まさに「ハイリスク ハイリターン」である。当時は研究室にもいづらくなっていたので、だめなら研究室を去る覚悟を決めた。幸いにも、プローブ作成に使用できそうなN末端配列を有する3つの限定分解産物を得ることができたので3種類のプローブを作成して遺伝子クローニングを再開した。
1986年5月25日(日曜)の午前11時に暗室でフィルムを現像すると、3万個のcDNAライブライリーの中から3種類のプローブ全てと反応するものを一つだけ見つけることができた。苦節8年、夢にまで見た遺伝子を手に入れた瞬間である。すぐに三人の共同研究者に電話をかけて近くの喫茶店で祝杯をあげ、休む間も無く次の実験に取り掛かった。
後に、リコンビナントタンパク質を作り抗体産生誘導活性を確認した。1986年夏にトロントで開かれた国際免疫学会で発表したが、学会中もホテルに閉じこもりひたすら論文を書いた。帰路の機内でも論文作成を続け、帰国後すぐに投稿した。11月に、Bリンパ球に作用して抗体産生を誘導する液性因子BSF-2(B cell Stimulating Factor-2)の遺伝子クローニングとその構造決定に関する論文がNature誌に掲載された。
その後、BSF-2は他の研究グループが追い求めていた肝細胞刺激因子、インターフェロンβ2、そしてミエローマ増殖因子などと同一物質であることが判明した。1988年12月14日にニューヨークで開催された国際会議でBSF-2を含め様々な名称で呼ばれていた生理活性物質の名前を「インターロイキン6(IL-6)」と統一することになった。
1989年に阪大医学部教授に就任し、IL-6の作用機序や、その異常がなぜ関節リウマチなどの自己免疫疾患を引き起こすのかという疑問に答えるために、IL-6受容体を介するシグナル伝達機序の研究を地道に続けた。IL-6受容体を介するシグナル異常で関節リウマチに酷似した関節炎が加齢により自然発症することを明らかにした。さらに、IL-6や炎症性サイトカイン産生の増幅機構であるIL-6アンプを発見するとともに、自己免疫疾患や慢性炎症疾患、そしてがんの発症にIL-6アンプが関与していることを明らかにした。新型コロナウイルス感染症の重症化に関与するサイトカインストームにもIL-6アンプが関与していると考えられる。
研究には失敗も数え切れないくらいあり、まさに紆余曲折の連続であった。そのような研究者人生で嬉しかったことの1つは、2009年にスウェーデン王立科学アカデミーからクラフォード賞をDinarello先生、岸本先生と三人で共同受賞したことである。カール16世グスタフ国王からメダルと賞状をいただくとともに、晩餐会では国王と同じテーブルに着席し親しくお話をさせていただいた事が昨日の出来事のように思い出される。
岸本先生と共同で、中外製薬が開発したIL-6受容体に対する抗体医薬「トシリズマブ;商品名アクテムラ」等の、IL−6阻害薬が重症の新型コロナウイルス感染症治療に有効である事が、2021年1月にイギリスの研究グループなどにより明らかにされた。免疫学会創設50周年、IL-6発見35周年である記念すべき2021年に、IL-6阻害薬が重症の新型コロナウイルス感染症の治療に有効である事が明らかになった。長年の研究がこのような形で世の中に貢献できた事は、研究者冥利に尽きる。
- 免疫学会の思い出
私の免疫学会との関わりは、免疫学会を創設された山村先生の第3内科に卒後すぐの1972年に入局して免疫学の道を歩み始めたことから始まった。以来、免疫学会50年の歴史は、まさに自分の研究者人生と重なる。
免疫学会の思い出として浮かぶのは、まず1988年から3年間務めたニュースレターの編集長時代。多くの会員が参加できるニュースレターにしたいと思い、「オープン」をキーワードにした。これはのちに免疫学会長、阪大総長、そして現在の量子科学技術研究開発機構(量研/QST)理事長になっても貫いてきた姿勢で、若い人にも自由に、積極的に書いてもらった。
今でも読み返すほど有意義なものとしては、ネットで展開した公開討論会「独創的研究とは」だと思う。編集長を退任する最後の号(8巻第2号、通巻15号)に吉村昭彦先生が「独創性とは何か、あるいは優れた仕事を成し遂げるには何が必要か」というエッセイを投稿された。最終校正原稿を印刷所に送ろうとした矢先に、本庶佑先生から一本の電話があった。「ニュースレターに意見を書きたい」という趣旨だった。でも印刷は間に合わないので、ネットで標題の公開討論会を開くことにした。
当時は、ネット上での意見交換は大変珍しく、公開討論会では各自の思いのこもった熱い議論が交わされた。石坂公成先生も投稿されるなど4か月の間に13人16件の意見が寄せられた。この中には、「オンリーワンになることが独創性への最も近道である」という本庶先生の言葉など各先生の研究に対する哲学、考え方など至極の言葉がちりばめられている。幸い、今でもネットに残っているので、ぜひ読んでもらいたい(日本免疫学会ホームページ -> 一般の方へ -> JSI Newsletterのサイトにリンクあり)。
2005年に日本免疫学会会長に就任した。前任の高津会長時代に、それまでの任意団体から特定非営利(NPO)法人になることが決定された。私の役割はNPO法人としての学会のスムーズな立ち上げと、2010年に日本で開催される国際免疫学会の準備体制を整えることであった。また、引き続き情報発信にも努めた。高津会長時代に学会の財務改革が行われた。それまでは、学術集会の財務管理は学術集会長の責任で行われていたが、免疫学会事務局が責任を負う形に改革された。さらに、私の時代には、学術集会のプログラム策定に関する改革を行った。それまでは学術集会の会長の裁量で決めていたので、学会として一貫性があるとは必ずしも言えなかった。学術集会に一貫性を持たせるために、学会の学術委員と学術集会の委員との合同で、プログラムや学術集会のやり方などを決めることにした。新しい体制下での初めての日本免疫学会学術集会(第36回)を、学術集会長として2006年12月に大阪で開催した。
- 免疫学会への期待
50年ほど前に、免疫学が免疫化学の時代から細胞免疫学の時代へと転換したように、今また、免疫学の新しい時代が始まる大きな転換期を迎えていると思う。システムバイオロジーや量子力学など、新たな視点を取り込むことにより、免疫学は新しい時代を迎えさらに発展していくと思う。
次の50年に何を目指すかを模索してほしい。異物が体内に入ってきて、花粉症にしても新型コロナウイルス感染症にしても、ある人は症状がでるが、ある人はでない。その程度も様々であるし、がんに対する免疫応答も人それぞれである。個々の人の免疫応答を予測可能にするためには、免疫システムの統御機構を究極まで追求していく必要がある。
分子生物学の進歩と共に免疫学は大きく花開いた。また、免疫学は生命科学全体を牽引してきた。我々は体のすべての部品の設計図を手にした。自動車は10万点の部品を分解し組み立てても再び動く。しかし、生命はそうはいかない。免疫学は、今でも日々新たな知見を得ているし、これからも数多くの免疫を利用した治療薬が開発されると思う。しかし分子レベルでの生命科学には限界があり、「命とは何か?」という究極の疑問には無力である。
私が理事長を務める量研/QSTでは、スピントロニクスなど量子科学技術に基づいた理工学領域に加えて、放射線生物学や医学などの領域がある。これらを融合し、量子レベルや、量子力学の視点で生命現象を観た時に新たな発見やブレークスルーが起こると考えている。
16世紀に光学顕微鏡が登場し、分類学だった生物学にパラダイムシフトが起き、細胞生物学の時代が花開いた。生命科学は科学技術に大きく依存している。量子科学技術に基づいた最先端の観察・計測技術を応用すれば、観察したことがない現象が見つかる可能性がある。
渡り鳥は地磁気を検知して3,000kmも飛来することができる。その仕組みには「量子もつれ」が関与しているようだ。光合成は「量子重ね」、酵素反応は「量子トンネル」が関与しているようだ。麻薬犬やサメなどの鋭敏な嗅覚機序は、分子生物学的には確立されているが、このような高感度を説明するには量子力学の観点の研究が必要である。
このような考えにたち、量研/QSTの組織再編を行い「量子生命科学研究所」を新設すると共に、量子免疫研究チームも作った。また「一般社団法人量子生命科学会」を2019年に創設した。今後、免疫学会との連携も進めたい。
免疫学会は若手研究者に夢を与える学会になってほしい。夢は、人や組織によって異なるが、共通することはその人や組織にとり実現困難だという事。しかし夢と諦めてしまえば永久に夢に終わる。「夢は叶えるためにある」と思う。夢に向かって目の前の山を1つ1つ登り切っていくことが重要。そうすれば夢は、突如、現実のものとなる。夢にたどり着けなくても、夢を目指す1つ1つの努力、その過程が人生を豊かにしてくれる。目の前の山の頂上に立つことにより、それが例え低い山であっても、新しい景色が見える。次に進むべき道が、次に登るべき山が見える。そして、その先に夢が静かに待っている。
自分の研究成果は決して一人で成したことではなく、共同研究者はもちろんのこと、無数の先人たちの多くの努力の結晶の上に、己の研究があることを自覚して、謙虚さと感謝の心が大事だと思う。己に驕ることなく、謙虚に己を見つめ、己を磨くことが、次なる飛躍に、ブレークスルーに導いてくれる。自然は果てしなく大きく、人間の理解をはるかに超えている。
「夢は叶えるためにある」を胸に、人生を歩み、真理解明を目指してほしい。