- 研究の思い出
医師だった父の関係で、高校まで山口・宇部市で過ごした。京大医学部に進学したが、柴谷篤弘先生の「生物学の革命」を読み、分子生物学を極めれば、治療に役立つのではないかと思った。大学院は、生化学の早石修先生の研究室に入り、米国でタンパク質合成の仕組みを研究してきた西塚泰美先生の指導を受けた。ジフテリア毒素によって、タンパク質合成が阻害される仕組みを研究したが、1970年当時、大学紛争の真っただ中で研究は自己規制されていた。
私の免疫の研究は、1971年にアメリカのCarnegie研究所に行った時から始まった。その時の免疫の最大のなぞは、マウスにどんな人工化合物を投与しても抗体を作るのは何故かということだった。いわゆる抗体の多様性産生メカニズムだ。最初から無限個の抗体遺伝子があるわけはないということを皆漠然と思っていた。
その時、ボスになったD. Brown先生が、あるセミナーで「分子生物学が進歩して、この問題は解ける。遺伝子を調べることで、抗体の数が無限であるどうかがわかる」と断言した。大変好奇心を掻き立てられた。
分子生物学的な手法でこの問題を解決できないかと思い、どこならできるかと聞くと、米国立衛生研究所(NIH)P. Leder博士がマウスの抗体遺伝子を研究していることを教えられた。NIHに行き、1973年にLeder博士のもとで、抗体遺伝子の数を数え始めた。
当時、B細胞が産生する抗体は2本の長い鎖(H鎖)と2本の短い鎖(L鎖)が組み合わさったY字型の構造をし、抗原に結合する可変部(Variable region)と定常部(Constant region)があることがわかっていた。
遺伝子を調べると、定常部は1個か2個という少ない個数、可変部は複数ある。これによって遺伝的な変異、ダイナミックなことが起こっていると考えられると報告した。類似の報告が相次ぎ、その真相を巡って世界中の研究者がしのぎを削っていた。
1974年に東大に帰ると、日米の研究環境の差に愕然とした。競争の激しい分野の試合に参加するどころではなかった。研究環境を自分で整えなくてはならなかった。1978年に利根川進氏が抗体の再構成を突き止めても、「負けた」という意識はなかった。私は、皆が手をつけていなかったH鎖を調べることにしていた。
抗体はいくつかのタイプ(クラス)があり、最初にIgMが作られ、その後、可変部を変えずにIgA、IgGなどに「クラススイッチ」することが分かっていた。ただその現象がどのようにして起こるのかは謎だった。マウスに移植したミエローマ細胞から抗体遺伝子を調べていくと、抗原が会合する時、V-regionを変えずに、C-regionの遺伝子に染色体の欠失が起こることがわかった。C-regionのH鎖遺伝子が仮定した順に並んでいて、VH(可変部長鎖)と特定のCH(定常部長鎖)遺伝子の間が欠失することでクラススイッチが起こるというモデルを1978年に発表した。次は、モデルを実証するためH鎖の遺伝子をクローニングし、その上で欠失を確認しなければならない。
Leder博士のところでクローニング技術を学んだが、日本で行うのは難しく時間がかかった。最終的にH鎖遺伝子を単離して、染色体上での欠失を証明できたのは4年後の1982年、大阪大にいた時だ。H鎖を同定できた時はうれしかった。この成果は、分子生物学的な手法で、免疫の新しい仕組みを解明できるという時代の幕開けと言える。
次はクラススイッチを起こす仕組みの解明に挑んだが、これは大変だった。生化学的な視点から何かスイッチさせる酵素があると考えたが、その前にどういう条件だとクラススイッチが起こりやすいかを調べることにした。
そのころ岸本忠三先生らが、IL-6を突き止め、我々もIL-4、IL-5をほぼ同じ時期にクローニングした。これがのちに役に立った。
1991年からNIHの「Fogarty Scholar」という招聘研究員として、給与も住居も当たえられ、義務もない条件でアメリカに行った。一年分を4分割して毎年3ヶ月滞在した。今まで遺伝子など分子生物学ばかりやっていたから、ここでは免疫システムをじっくり学ぶことができた。
その中でW. Strober研究室が「CH12」という細胞株を持っていることを知った。その細胞にサイトカインをかけると、数%でIgMからIgAへのクラススイッチが起きていた。これがのちにクラススイッチを誘導する酵素「AID(Activation Induced Cytidine Deaminase)」(活性化誘導シチジンデアミナーゼ)発見のもとになった。
94年にこの細胞を京都に持ち込み、1年以上かけてリクロニーングしてスイッチ効率50%の株を得た。クラススイッチが起こる場合と起こらない場合を引き算して、1999年に差のある遺伝子(AID)を見つけた。同時に、このAIDは、抗体の可変部の変異である「SHM(Somatic Hyper Mutation)」(体細胞突然変異)に関わっていることがわかり、2000年に発表した。1970年代から始まった抗体の多様性の研究は28年間を要して、一区切りを迎え、達成感を味わった。その後、AID研究はRNA編集酵素とみて研究を続けている。
これとは別に1990年代から胸腺における細胞死に関心を持った。臨床医を経て、大学院に来た石田靖雅君(現・奈良先端科学技術大学院大准教授)の熱意に押されT細胞のアポトーシス(細胞死)に取り組んだ。AIDの時のように、胸腺細胞を刺激すると分裂して細胞死する時にでる産物を引き算法でクローニングした。
とれたのが、PD(Programmed death)-1。従来の免疫系の受容体とは異なる受容体で、1992年に発表した。PD-1ノックアウトマウスを作成したが、何も変化なし。そこで免疫学の湊長博・京大教授のアドバイスを受け、純系マウスで調べると、1年くらいで自己免疫疾患を発症。一方で自己免疫高発症マウスと交配したマウスではすぐに発症、1997年に発表した。これは何らかの免疫監視役で、特にブレーキ役の調節因子ではないかと思った。
カリフォルニア大バークレー校のJ. Allisonは、1995年「CTLA-4」(細胞傷害性Tリンパ球抗原4)がブレーキ役の調節因子であることを発表すると、同じ年すぐに、抗CTLA-4抗体でがんの増殖を抑制する実験を報告した。しかし、CTLA-4のノックアウトマウスは3週間ですべて死ぬので、私はマイルドなPD-1抑制の方が、副作用の少ない薬として有望と考えた。
そこで湊教授と抗PD-1抗体を作成し、効果を調べる共同研究を開始した。2002年には、マウスの系でがん抑制に顕著な効果があることを確認し、これはヒトでも効くと思った。当時、京大にはPD-1の特許を管理する体制がなかったので、小野薬品と共同で出願し、治験をやる会社を探した。紆余曲折があったが、ヒト型抗体作製技術を持ち、CTLA-4の治験をやっていたメダレックス社(2009年に米ブリストルマイヤーズスクイブが買収)がパートナーとなり、2006年から治験が始まった。ところが臨床医は、免疫療法をあまり信用せず、治験参加する患者が集まらなかった。そのため時間がかかった。ようやく2012年にNEJM(New England of Journal Medicine)に発表した論文では末期の肺がん患者に投与すると、2~3割でがんが消えるなど効果があることが確認された。米ウォールストリート紙など欧米のメディアが1面トップで「革命的新薬」と報じたが、日本のメディアはどこも報じなかったのを覚えている。
その後、この抗PD-1抗体は、「ニボルマブ(商品名オプジーボ)」として、2014年に日本でメラノーマ治療薬として先行承認された。「チェックポイント阻害剤」と呼ばれる新たな治療薬で、免疫監視役キラーT細胞はPD-1 と結合するPD-L1を発現するがん細胞への細胞障害性が抑制されるが、これをブロックすることでキラーT細胞が活性化される仕組みだ。その後は非小細胞肺がん、腎細胞がんなど20を超えるがんに適用される抗がん剤として世界中で使われている。
抗PD-1抗体の発見など「免疫抑制を阻害する分子機構の解明」で、Allisonとともに2018年にノーベル医学・生理学賞をもらった。AIDの発見の方が、学問的には重要だと思うが、PD-1の方が社会的インパクトという観点から言えば評価しやすい。評価は自分で決めるものではない。
幸福な免疫学研究人生を歩めたと思う。もともと分子生物学から免疫学に入ったが、違う視点で複雑な免疫機構をみることができた。ただただラッキーの連続だったと思っている。
- 免疫学会の思い出
1970年代後半、まだ黎明期だった免疫学会で、多田富雄先生に対し、岸本忠三先生が、サプレッサーT細胞に関する、本質的な質問を投げかけ侃々諤々の熱い議論をしていたのを覚えている。概念的な仮説を唱える多田先生に岸本先生が直截的に疑問を呈するのをみて、いいなと思った。これこそ学会。こんな光景は、他の学会では全く見られなかった。私は、免疫への知識が欠乏していたせいか、議論に参加できなかったが、知的な闘いを興味深く見守った。
1999年からの日本免疫学会の会長を務めた時のことは、正直覚えていないが、会員が6300人を超えたのを覚えている。今は大分減った。生命科学が大きく変わり、細胞や物質からシステムへとレベルが上がった。多くの人がついて行けていない。
また、日米合同がん研究免疫部会に、多田先生、岸本先生、笹月健彦先生らと参加したのがとても印象深い。今COVID-19対策で、科学者としてアメリカ政府のアドバイザーを務めるA. Fauci博士、免疫の主役としてT細胞、B細胞の系列が存在することを発見したM. Cooper博士、リンパ球のホーミングレセプターを発見したI. Weissman博士らと交流したのは、自分の免疫学への見識を深める意味でとても刺激になった。
私は分子生物学者として研究をはじめ、日本分子生物学会、日本生化学会、日本免疫学会に所属した。分子生物学的な手法は、他の生命科学分野の強力な道具となったが、方法論が中心で間口が広がり過ぎた。いわば百貨店。その点、免疫学会は専門店の集まりで、興味の対象があり、先ほど話した自由な雰囲気もあってとてもなじみがある。
但し、最近はシステムとしての免疫学を語れる人が少なくなった。自分の分子や自分の細胞しか興味ないのは寂しい。
- 免疫学会への期待
私は、日本とアメリカの免疫学会の会員となっている。情報発信をみると、アメリカの学会の方がとてもきめ細かいように感じる。特に若い研究者向けのプログラム。ティーチングコースとか、ワークショップとかを盛んにやっている。
それから、学会として、臨床系の学会と合同でセミナーを開き、研究交流を進めている。日本の免疫学会も、他の学会に比べればましだと思うが、他の学会との交流を積極的にやったほうがいい。こうした交流の中で、共同研究や新たな発想が生まれる。それを実行するためのスタッフがいないとの反論も聞こえそうだが、工夫してサポート体制を構築してほしい。
若い研究者に免疫学の魅力を伝えていくことも大事だ。生命科学の中で免疫学という分野は、遅く誕生してきた。同じく日が浅く、魅力的な分野として脳科学があるが、これは未知の分野が多く、分析がとても難しい。その点、免疫学は比較的アプローチしやすい。それに加え奥の深さ、命の仕組みの全体にかかわるという意味で、免疫学の役割は大きい。脳機能とか、腸管免疫、代謝、老化とかにかかわるわけで魅力が大きい。若手の免疫学研究者の力は正直言って落ちているといえるかもしれない。実は生命科学全般に言えることだと思う。若手のポスト不足、研究費の減少など複合的な要因がある。研究者の声が政府に届いていないという側面もある。そうした流れの中で、すそ野を拡大するための施策を考える時期に来ている。
こうした研究力の低下は、今回の新型コロナウイルス関連の研究で、日本発のめぼしい研究が少ないことに端的に表れている。COVID-19の病像はまさに免疫の問題。成果を期待したい。
私はもともと分子生物学から免疫学分野に入った。その分子生物学的な手法を多方面に紹介し、日本の免疫学発展に貢献できたと思っている。数々の免疫関連の遺伝子クローニングができたことはいいが、自分が見つけた分子を中心に免疫を見ようとして、全体を見ない傾向が強まっている。「木を見て森をみず」だ。日本人の特性として、ナロースリットのところに入り込み、コツコツとやり、成果を上げることには向いている。分子生物学や生化学の分野だ。最近、免疫学で日本初の大きな成果がでにくくなっているのは、細分化され過ぎ、全体像をみること、免疫の統御的な全体システムの観点で見られなくなっていることに一因がある。そのためにも統合的な見方をするような学術集会のプログラムなどをするような工夫が必要だ。
私の座右の銘は「有志竟成」(志を曲げることなく堅持すれば、必ず成し遂げられる)と「何を知りたいか」。特に、研究には、後者の自分が何を知りたいか、常に自問自答していくことが大事だ。論文を書けるプロジェクトではなく、何を知りたいかを問わないと間違った方向に行ってしまう。クラススイッチの遺伝子組み換えの酵素を見つけるまで28年かかった。つまりそれまで、いろいろなことをやって失敗続きだった。でもその間、AIDを知りたいという志に向かって、いろいろなことをやった。その過程で、IL-2R、IL-4、IL-5、PD-1が見つかった。AIDを得るためにすべてが役に立った。そうしたことを若い研究者に伝えたい。
ノーベル賞受賞者とほぼ同等の成果を上げた人は多い。海外で認められ、国際賞を取るような人材育成が求められる。こういうと失礼だが、日本のノーベル生理学・医学賞受賞者は私も含めて本流から少し外れた、毛色の違う研究分野の出身が多い。学会としてもそういう視点も大切にしなくてはいけない。