稲葉カヨ理事長(2009-2010)

  • 研究の思い出

 自然豊かな岐阜県の養老町で育ち、野原を駆け回るのが大好きな少女だった。科学者になりたいわけではなかったが、「好きな道に進みなさい」という父の後押しもあって、大学では理学部に進み、植物学を専攻した。安田講堂事件で東大入試が中止なった年で、「大学は家から100km以内」という条件があったので、奈良女子大に進学した。

 植物学では分類学や生態学実習があり、野外での行動が苦手でもうひとつ馴染むことができなかった。4年になると「就職するのならば実家の周辺で、しかし学士入学や大学院へ進学するのならば、帰ってこなくてもいい」との父の言により京都大学大学院(村松研究室)に進学した。これは、集中講義で大学に来ていた京都大学理学部動物学教室の村松繁助教授の免疫学の話を聴講して興味をそそられたこと、また定期購読していた岩波書店「科学」、中央公論「自然」、日経「サイエンス」の中で取り上げられていた免疫の記事の影響もあったことと思われる。

 研究室では初めての女性だった。大学院で、まず取り組んだのは、抗体産生の制御の解明である。抗体産生には、胸腺由来のT細胞、骨髄由来のB細胞が必要だとわかっていたが、T細胞、B細胞だけではなく、さらに「アクセサリー細胞」と呼ばれる未知の付着性の細胞が必要なことが明らかになってきた。今日の「抗原提示細胞」だが、食作用がある細胞であることから、当時はマクロファージが「抗原提示細胞」であると考えられていた。免疫学のこのような進展の中で、1978年に学位取得後、助手として採用され、in vitro培養系で、脾臓のリンパ球とその付着性細胞を用いて抗原提示細胞の探索を開始した。

 その過程で、1973年に米ロックフェラー大学のラルフ・シュタインマンらは脾臓にはマクロファージとは異なる付着性細胞があり、電子顕微鏡による形態観察から「樹状細胞」と名付けられた新たな細胞の存在を報告した。さらにその後の、性状解析を通じて、樹状細胞は直接ヘルパーT細胞に働きかけ活性化すること、さらに、皮膚に存在することが知られていたランゲルハンス細胞も樹状細胞の一種だということも明らかにされた。

 ラルフ・シュタインマンらは抗体産生における樹状細胞の関与を検討していなかったため、この点に着目し抗体産生系における樹状細胞の機能を解析する研究に着手した。1981年には、マクロファージに樹状細胞が混ざっているときにのみ抗体産生おこることをJournal of Immunology誌に発表した。同年の11月に、東京で開催された内藤記念財団の国際シンポジウムで私の研究成果を村松先生が講演され、その後のレセプションで、シュタインマンの属する研究室を主宰するザンビル・コーン教授から「ロックフェラーでシュタインマンと一緒に研究しないか」との申し出があった。

 これを受けて1982年にロックフェラー大学に留学し、シュタインマン(当時准教授)ともに、抗体産生系における樹状細胞の抗原提示機能に関する研究を開始した。彼らの作成した樹状細胞に対するモノクローナル抗体を使って脾付着性細胞から樹状細胞を除くと抗体産生が減少し、さらには樹状細胞のみで抗体が産生されることが確認できた。これにより樹状細胞こそが第一義的な抗原提示細胞だということが証明され、1983年にこの結果を発表した。僅か半年程でこのような成果が得られ、「周囲から驚かれた」ことは、面映い反面以後の研究を推し進める上で非常な励みになったことが思い出される。

 研究は順調で、そのままロックフェラー大学に残らないかと言われたが、同じころダラスいた夫の留学も終わったのでの、2年2か月の留学を終え日本に戻った。ただ、シュタインマンらのグループとの共同研究はその後30年近く続くことになる。

 京都大学に戻ってからも、夏・冬・春の長期休暇ごとに30年近くにわたる渡米を継続し、その共同研究の過程で、樹状細胞の役割を次々に明らかにしてきた。病原体が侵入すると樹状細胞は、それを取り込み、一部を抗原として表面のMHCクラスⅡ分子上に結合する。このような樹状細胞は末梢からリンパ節に移動してヘルパーT細胞に抗原を提示し活性化する。これによってB細胞などがこの抗原に対応して抗体を産生するという一連の流れを解明した。さらに抗原を提示した樹状細胞とヘルパーT細胞が結合する接着分子を同定したほか、樹状細胞表面にある、200万個以上のMHC分子のうち、わずか100個程度に抗原が乗っていればヘルパーT細胞を活性化できることを明らかにした。これらin vitroの研究に加え、生体内に大量に抗原を注入しその生体から調製した樹状細胞は抗原特異的にT細胞を活性化できることも報告し、in vivoにおける樹状細胞の抗原提示能を確認した。樹状細胞は末梢では全免疫細胞のうち1~2%程度しかないとされ、その分離・精製と実験への適用には困難を伴うが、この問題を解決するため末梢血中や骨髄中の前駆細胞から樹状細胞を分化・増殖させることを試み、これが可能であること、またその方法をも公表した。

 1980~1990年代は、1年に2本くらい筆頭筆者として論文を発表するなど、研究が楽しく、脂が乗っていた時期だった。結果がでないときは、実験は失敗でなく単に考え方が間違っていただけと思い、あまりクヨクヨせず同時に複数の実験を行い、様々な方法を試行するようにした。

 90年代に入ると、樹状細胞の研究のすそ野は一気に広がる。こうした一連の研究は、樹状細胞を使って特定の抗原を攻撃する免疫療法につながり、実際に臨床に応用された。医師ではないので、あまり臨床応用は興味がなく、その後も他の免疫細胞への影響や、免疫寛容などについての研究を続けた。

 研究成果が上がったのは、シュタインマン教授と共同研究をしたロックフェラー大学の研究環境がよかったこともある。研究環境には本当に恵まれ、例えば実験動物にせよ、自ら用意することなく準備され、研究に没頭できた。先述のようにロックフェラー大学には長期休暇のたびに訪れていたが、渡米前には「次は何をする」「何を用意しておけばいいか」と先方から申し出があり、このことをもってしても極めて恵まれた研究生活であった。

 かけがえの無い共同研究者であったシュタインマン教授はその後すい臓がんになり、自ら樹状細胞を使った免疫療法などを試していたが、2011年9月30日逝去された。逝去の日はノーベル医学・生理学賞発表の3日前であり、ご承知のようにノーベル賞は生存者が対象だが、樹状細胞の発見と機能解析の成果を讃え、初めて亡くなった人に対しノーベル医学・生理学賞が贈られることになった。

 12月のノーベル賞授賞式には出席し、シュタインマン教授のご家族や共同研究者らとともに思い出を共有することができた。シュタインマン教授とは、息子さんや娘さんの結婚式に出席したり、我が家に3週間ほど滞在したり、モントリオールの国際免疫学会から戻るときに雷で飛行機が欠航したときには彼のお母さんの家に1泊して家族との突如計画されたパーティーに参加するなど家族ぐるみのつきあいだった。

 

 京都大学では理学部の助教授、新たに設置された大学院生命科学研究科教授、研究科長、副学長、理事・副学長を務め、同時に女性活躍のすそ野拡大に取り組んできた。そのため研究の時間はとれなくなったが、男女共同参画の推進、女性のライフイベント、例えば出産などの際の評価をどうするか、などの諸問題に取り組んできた。女性教員の採用など、まだまだ難題は山積しているのが現状である。今は公益財団法人京都市男女共同参画推進協会の理事長として、大学とは別の視点からの努力を続けている。

 研究者人生を振り返ると、やはり免疫学の研究は面白く、その揺籃期から免疫学に関わり、免疫学の進展とともに自分も研究者として成長できた、と感じる。顧みて本当にいい時代だった。しかし、免疫学の分野もまだまだわかってないことだらけである。失敗しても、折れない心で、しなやかに、たおやかに進んでほしい、と特に若い研究者の方にエールを送りたい。

  • 免疫学会の思い出

 2009年から2年間、初めて女性として理事長を務めたが、学術集会への参加が減少している時だった。本庶先生の会長時代は3000人を超えたが、私の時代には既に2600人前後しか参加者がなかったと記憶している。医学部の臨床研修制度が始まり、臨床系の研究者が少なくなったこと、さらには奨学金制度が給付型から貸与型に変更となったことで大学院生が減少し始め、そのため大学院生の参加も減少した。このままでは学会が赤字となると思い、在り方委員会を設置して今後の方策を考えていただいた。ランチョンセミナーの開催数を増やしたり、会場費を抑えるため安価に借りられる会場選びに苦労したりして、何とか黒字をだすことに務めた。赤字になると「免疫サマースクール」や一般向けアウトリーチ「免疫ふしぎ未来」などの事業ができなくなるためである。

 こうした流れの中で、2014年に創設された岸本忠三先生からの御支援による若手研究者育成事業「きぼうプロジェクト」は本当にありがたく言葉に尽くせぬほどの感謝の念を抱いている。この創設に関わったことから、今もなお選考委員を務めている。抗IL-6抗体受容体抗体治療薬「アクテムラ」のロイヤルティをもとに大学院博士課程1年(5人、日本学士院のDC1に相当)には年間300万が3年間贈られる。有望な若手が育っているが、2021年度からは大学院博士課程2年(6人、同DC2に相当)にも2年間300万円が贈られることになった。こうした制度があるのは免疫学会だけなので今後の継続を切に願っている。

 1980年代の後半に入った頃に、樹状細胞のがん免疫における役割について日本癌学会で発表したことがあったが、質問に立った人から「そんな研究の意味がわからない」といわれたことが印象深い。ようやく樹状細胞が認知され始めた時期だった所為もあるのかも知れない。しかし、免疫学会はいつも、とても活気があり議論が活発だった。しかも、樹状細胞の抗原提示に興味を持ってくださる研究者も増えてくると、さらに色々な刺激が得られる場だった。想い出に残るのは、2008年第38回免疫学会の総会・学術集会を会長として12月1日〜3日に国立京都国際会館において開催した折に、テクニカルセミナーの講師としてシュタインマン教授を招いたことであり、夫妻で来日された。シュタインマン教授はこれに先立つ10月に神戸で開催された国際樹状細胞研究会にも出席され、何度も日本の地を踏んで国内の多くの研究者とも交流しておられた。

  • 免疫学会への期待

 免疫学会は医学系だけでなく生命科学系や獣医学などの研究者が一堂に会して議論する場である。このことに鑑み、医学部の臨床系の研究者が減っているのは寂しいことである。免疫学が、分子生物学や構造生物学などとも関わりを持つようになり、あるいは持たらざるを得なくなり、臨床系の研究者にはハードルが高くなっていることもあるが、臨床系医師の学会への参加を促進させ、第一線の臨床医からの視点で免疫学を俯瞰するようなプログラム作りなどの工夫も必要であろう。

 その意味でも、研究者向けのアウトリーチを積極的に展開してほしい。「免疫ふしぎ未来」は一般向けの科学コミュニケーション活動として、各地域で行われており、とても有意義。一般の親子連れの参加者に免疫学の面白さを伝えて欲しい。それに加え、研究者向けの学術的なアウトリーチに学会として取り組むことも大事である。地方の医学部では、医師不足などの理由で基礎研究がしづらくなっている。そうしたメディカルドクター(MD)に免疫研究の重要性や魅力を伝える機会になるのが、学術的なアウトリーチ活動だ。その一環にあるのが、「免疫サマースクール」である。免疫学会に所属する学生だけでなく、企業研究者やこれから進路を決めようとする学生にも門戸を開いており、著名な研究者との交流の場でもある。予算の制約や担当される先生方のご苦労も察して余りあるが、今後も継続し、免疫学会としての世の中に誇れる活動となることを期待している。

 免疫学を専攻する院生やこれからの分野を選択をしようとする学生に対しては、修了後のキャリアパスを示すことも大事だろう。アカデミックポストが少ない現状では難しさもあるが、海外では製薬会社やベンチャー企業へ進むPh.D.が多い。キャリアに対して考え方も異なる。そうしたことをきちんと紹介して、免疫学がホットな分野で、創薬など健康・長寿につながる未来のある分野であることを学会が中心となって率先してアピールして欲しい。

 生命科学分野は自然科学の中でも比較的女性が多いが、免疫学会ではまだ学術集会の大会会長を含め、女性の理事長経験者が少ない。学術集会での座長やシンポジストとして招かれる女性研究者も増えてきており、学会としても積極的に取り組んでいる。しかし、今以上に増やしていくためには、やはり優秀な女性の研究者のすそ野を拡げなくてはいけない。そのためには先ず理系へ進学する女子学生を増やすことが重要であることは言うまでもない。しかし、そのためには母親教育が大事だと思っている。母親には、どちらかというと理系分野のことが不案内の人が多い。しかし、家庭教育では子供に対して、男女を問わず母親の比重が大きい。理系への理解を深め、女性研究者を増やし、女性がはたらくことを理解する男性を増やす意味でも母親の役割は重要となっている。こうした視点も取り入れながら、学会活動に取り組んでいくことを期待したい。