- 研究の思い出
大阪富田林に生まれた。親父は教師で、教育熱心な母親から野口英世の話を聞き、将来はアメリカにわたり研究者になりたいと思っていた。成績が良かったので、大阪大医学部に進んだが、5年生の時に九州大から異動したばかりの山村雄一先生の自己免疫疾患の話を聞いて、惹きつけられた。この出会いが、今日に至る免疫学研究人生のすべてといってもいい。
1964年に大学を卒業し、1年のインターン(実地研修)を経て、山村先生の内科に入局するとともに、大学院に進んだ。当時の免疫学は免疫化学と言われ、抗体の構造を調べることが主流。私が取り組んだのは免疫グロブリン(IgM)の構造を決めることだった。化学物質の扱い方を学びに、理学部に1年間修業にも出された。
博士号の学位をとると免疫の研究を本格的にしたいと、山村先生に懇願し、1970年に米ボルチモアにあるジョーンズ・ホプキンズ大の石坂公成教授のもとに留学する機会を得た。石坂先生はその4年前に妻の照子さんとアレルギー反応の原因となるIgEを発見し、ノーベル賞に近いと注目されていた。
そこでは4年間、T細胞が何らかの因子を出して、B細胞に作用し、抗体を作り出すという仮説の検証に力を注いだ。T細胞の培養液を精製し、B細胞にかけると抗体ができた時は、石坂先生と大喜びをしたのを覚えている。阪大からは高津聖志、平野俊夫君が相次いでアメリカに留学した。
石坂先生が、京都大の早石修教授によって同大に招聘された時、自分も助教授ポストの誘いを受けた。迷ったが、アメリカまできた山村先生が、「君は阪大に必要な人材だ」と説得され1974年阪大に戻り、第三内科助手になった。しかし、戻った阪大の研究室は、アメリカの環境と違った。実験器具もなく自分の机もなく、早い者勝ちの状況だった。
学会で大阪に来ていた、がん免疫療法の世界的権威、スローン・ケタリング記念がんセンター(ニューヨーク市)のロバート・グッド所長に会った。グッド所長は、夏に3か月間研究室に来ないかと声をかけてくれた。1976年に、研究所に行くと、リンパ球細胞株もふんだんにあるなど環境は充実していた。グッド所長は厳しい先生だったが、この留学でT細胞のファクターを加えると、IgGを産生する特殊なB細胞株「CESS」を発見できた。運がいいことに、この細胞は、培養上清の中に存在していたIL-6という分子のみに反応して抗体を作る株で、のちにIL-6発見につながることになる。私にとって初めてのNature誌に掲載された成果だった。
グッド所長には大変目をかけられ、その後、2年間、2か月ほど夏にグッド先生の下で研究していると、研究室に残らないかといわれた。再び迷っていると、山村先生が私を引き留めるために、医学部に修士課程の病理学病態学講座を新設し、1979年にその教授に抜擢した。山村先生のように免疫の面白さを伝えられるように学生の講義に情熱を燃やした時期だった。
時代は遺伝子を扱う分子生物学の時代に突入。免疫学も遺伝子解析なしでは考えられなくなっていた。分子生物学から免疫分野に入った本庶佑教授が東大から阪大教授として赴任したので、大学院生の審良静男君らを学びに行かせた。
そうした時代の流れの中で、総長になっていた山村先生は1982年、細胞工学センターを設立。翌年、私は医学部を出て細胞工学センターの教授になって、長年取り組んでいたB細胞を刺激するT細胞が放出する因子の遺伝子探索を本格化した。当時、この因子は少なくとも2つの因子があるといわれていた。
世界で初めてインターフェロン遺伝子をクローニングし、阪大に来ていた谷口維紹教授に遺伝子の扱いを教えてもらい、熊本大から戻った平野俊夫助教授らが頑張った。何百リットルのTリンパ球培養上清から100分の1グラム程度のたんぱく質を精製するという作業で、探索は難航を極めた。1985年秋に、京大に移った本庶教授らがIL-4を発表した時は、「やり方が間違っているんやないか」と研究を一からやり直した。暗澹たる正月だった。
でもあきらめずに研究を続けると、1986年5月についに遺伝子のクローニングに成功。1986年11月にNatureに「BSF-2」(後にIL-6と国際統一された)として発表したが、この時、本庶先生と高津聖志教授のグループもIL-5遺伝子をとらえたことを同じ号で発表していた。IL-6を捉えたのは我々だけだった。
幸運だったのは、このIL-6が思った以上に多くの顔を持つ分子だったことだ。例えばBリンパ球のがんであるミエローマの増殖因子がIL-6。また、IL-6は、心房内粘液腫という珍しい心臓病で、炎症の原因になり、骨を破壊して関節リウマチの炎症反応も引き起こす。さらに、感染症などに呼応して肝細胞に急性期たんぱく質を作らせたりするのもIL-6だった。一躍、世界の注目の的となり研究発表が増えた。
その後、我々はIL-6受容体の遺伝子クローニングに一気に進み、2年後の1998年には同定できた。興味深いことに、この受容体は情報伝達分子を代表するもので、類似の構造を有する分子が多数見つかった。驚いたのは、最初に受容体と思っていたのは一部で、翌年見つけた「gp130」というもう一つの分子があった。この分子がIL-6の信号を細胞内に伝達する働きをもち、しかもこのgp130は、免疫の枠を超えて、血液、神経系に働く分子の受容体にも関係する分子だった。他の追随を許さないこれらの成果で、世界からは「岸本ARMYには勝てない」といわれたこともあった。
1990年に再び医学部の第三内科教授に戻った。十数年ぶりの臨床だったが、これが次の薬開発にとても役に立った。キャッスルマン病や若年性特発性関節炎や関節リウマチの患者ではIL-6が異常に高くなっていた。受容体に抗体でふたをすると、症状が改善することがわかった。90年代半ば、このことを90年から共同で、IL-6阻害薬の研究していた中外製薬の永山治社長(当時)に持ちかけた。「わかった」と言って、事業化に乗り出した永山さんは本当に偉かった。抗体医薬はまだ珍しく、日本では初めてだった。宇都宮に10トンタンクを8基作り培養して精製して製造し、97年から臨床試験が始まった。2002年の秋に、中外は、スイスを拠点とするロッシュ社と統合し、傘下に入った。これで、2年間で40カ国4000人を対象としたリウマチの臨床試験の第3相試験が一気に行われた。この抗体医薬「アクテムラ」(物質名トシリズマブ)は、2005年に自己免疫疾患の「キャッスルマン病」の治療薬として、2008年には関節リウマチでも承認された。2000億円を超えるブロックバスターとなった。いまやアクテムラが、COVID-19による重症化の引き金となるサイトカインストームを抑える薬として使われているのは感慨深い。
免疫学というのは、生命科学の中で一番臨床に近い基礎研究分野だ。自分らが基礎研究の成果を、薬開発に結びつけ、患者の治療に役立てられたのも、内科医として出発し、その後基礎研究をきっちり行って、再び臨床に戻った経験が生きている。大学は基礎研究を担わなくてはならない。今は、応用重視の研究費の配分だが、それはおかしい。病気にヒントをもらいながら、すぐに役に立つことは考えずに、基礎研究に集中することが大事だと思う。
- 免疫学会の思い出
1971年にワシントンD.Cで開催された第1回国際免疫連合主催の国際免疫学会に、留学先のジョーンズ・ホプキンズ大から出席した。この時、T細胞、B細胞の相互作用の中で、最も注目されたのはサプレッサーT細胞だった。多田富雄先生がサプレッサーT細胞の存在を提唱し、スターになっていたのをよく覚えている。
1983年には、第5回国際免疫学会が京都で、国内で初めて開催された。日本免疫学会が主催した。この時は、日本免疫学会会長に再登板した山村先生が、国際会議の会長を務めた。プログラム委員長は多田富雄先生で、両先生のもと我々若手が大挙して参加し、世界から4000人を超える研究者が京都に集結。T細胞抗原受容体の発見など多数の画期的な成果が発表された。揺籃期の日本の免疫学が世界に羽ばたくことを印象付けたと思う。
その後の日本の免疫学の飛躍は目覚ましいものだった。日本人研究者が中心的な役割を果たし、「日本の免疫学なくして世界の免疫学なし」といっても過言ではない時代を迎えた。そんな状況だった1999年ころから、2度目の国際免疫会議の日本での開催の機運が盛り上がり、誘致活動が始まった。2001年の国際免疫学会連合(IUIS)理事会では、2007年の開催地が大阪に決まったが、翌日のIUIS総会では政治的な思惑で、1票差でリオデジャネイロに負けることになった。
このままでは引き下がれないと、再挑戦し、モントリオールのIUIS総会で、ローマに大差で勝利し、「Kansai」会議が2010年に神戸で行われることが決まった。
2007年会議の落選は残念だったが、でも個人的には、正直胸をなでおろした。というのも実は、その年、大阪で日本医学会総会が開かれ、その総会の会頭を担うことが決まっていたからだ。これに国際免疫学会議の会長が重なったら大変だと思っていたので、「ホッ」としたのを覚えている。
2010年の第14国際免疫学会は、神戸のポートアイランドの国際会議場で世界70か国から、過去最大の6000人が参加して開かれた。日本免疫学会の総力を挙げての取り組みで、大成功だと思っている。2009年に新型インフルエンザが発生したのを受け、特別講演会が企画された。25年前の国際免疫学会では、新興感染症のエイズが注目だったのと同じ。そして今年は、新型コロナウイルス感染症と、免疫学にもウイルスからの挑戦状がたびたび届いている感じだ。
神戸の国際免疫学会では、感染症、がん、自己免疫疾患、アレルギーなどの疾患に関し、免疫学が単なる基礎的な分野から病気の治療につながる臨床医学への分野へとすそ野を拡大するときだったと感じた。
もう一つ免疫学会で取り組んだのは、若手研究者の支援だ。優秀な若手研究者の待遇を改善するために、「きぼうプロジェクト」(岸本忠三・若手研究者育成事業)を2014年から始めた。博士課程の研究者らの奨学金が給付型から貸与型になるなど、若手を支援する環境はよくない。少しでも彼らの支援をしたいと思った。アクテムラで得られた特許料を資金源としているが、当初は外国の学会への交通費だった。現在は、免疫学博士課程の若手研究者の奨学金として給付している。2021年度は、免疫学博士課程1年を対象とした3年間の支援(日本学術振興会特別賞のDC1に相当、約5人)、もう一つは博士課程2年対象の2年間の支援(DC2に相当、約6人)。いずれも1人年間300万円だ。特許は今年で切れたが、基金として継続している。少しでも役に立てたらうれしい。
若手育成では、ここ20年毎年免疫サマースクールに参加している。2020年は、新型コロナで開催が中止となったが、本当に駆け出しの若手研究者との交流は楽しみで、これだけは今後も続けたいと思っている。
- 免疫学会への期待
免疫学の最大の強みは、基礎研究でありながら、その成果が臨床に直結するということだ。臨床に携わるメディカルドクターMDと生命科学のPhDとが連携することが欠かせない。免疫学会の会員は減少しているが、新型コロナウイルス感染症の出現で、新たな免疫の課題はたくさん見つかっている。そうした新たな分野に挑戦していけるように、学会として免疫学研究の魅力を高め、少しでも研究者を増やすような努力が必要だろう。
私の研究室(阪大免疫学フロンティア研究センター免疫機能統御学講座)にいる10人のうち8人が外国人という状況が、ここ10年続いている。アジア中近東からの留学生も多く、各国のレベルも上がっている。日本人研究者は、日本にいても情報は入り、研究環境も整備されていることから海外にいかなくなっている。しかし多くの外国人と友達になることは重要なことだと思う。だれでも行けということではないが、海外にもまれていないため、論文の質も低下してきた。これはという発見も少なく、日本の免疫学は一時期の熱狂もなく、しゅんとしていることは否めない。政府の科学研究助成金の在り方、アカデミックポスト不足など構造的な問題も背景にあるが、若手の視野を広げるような支援も学会として進めてほしいと思う。先ほども触れたが、免疫学の方向性は、病気が教えてくれる。治らない病気の多くは何らかの免疫機能の異常などが関係している。
今まで通りにやっていては、日本の免疫学の発展はない。自分のボスと同じ研究をやっていてもしょうがない。新しい視点を入れないといけない。新型コロナウイルスの感染拡大で世界では免疫分野に進む人は増えてくる。競争は激しくなるが、日本からCOVID-19に関する論文数が少ないのはとても残念。COVID-19の病態解明、治療法開発などにおける中国の存在感はすごい。この分野での日本の貢献は目立ったものがない。免疫学に限らないが、ハングリー精神がなくなっているのかもしれない。とはいえ、日本政府の科学研究支援は中国、米国に比べて貧弱。こうした状況を少しでも改善する意味でも、研究成果を上げ、免疫学会を盛り上げていくことが大事。免疫学会が生命科学分野の中でも臨床に直結する分野であり、世界をあっと驚かせるような成果を発信してほしい。