- 研究の思い出
長野県上田市で育った。家の近くの上田城公園に、世界で初めてコールタールを塗って発がんに成功した山極勝三郎先生の碑がある。海軍の軍医を務めた父から、山極先生の「癌出来つ、意気昂然と二歩三歩」という碑文を教えてもらい、「研究は面白いぞ」と言われて育った。
双子の弟の信之は東京医科歯科大に、私は京都大医学部に行ったが、当時は学園紛争で授業は少なかった。あってもノート講義でつまらなかった。2,3回生のころ同級生の西川伸一君(元理化学研究所発生・再生科学総合研究センター副所長)に理学部の大学院に面白い講義があると聞いて、行ったのが村松繁助教授(当時)の免疫学セミナー。FMバーネットの教科書を使った「自己非自己」「クローン選択説」の話に引き込まれた。
医学部の臨床講義はあまり面白くなかったが、なんとか卒業し、免疫研究に近い血液内科医として田附興風会北野病院に勤務。そこにアメリカで免疫を学んだ紺田進先生がおられた。紺田先生が、新しく開学した金沢医科大の血液免疫内科教授に就任するのを機に、助手としてついていった。
白血病、悪性リンパ腫の臨床のほかに、腫瘍免疫としてマクロファージを研究せよ言われていた。でも面白くなかった。実はリンパ球に興味を持っていた。大学3年の時に解剖学の小谷正彦助教授と議論したことがきっかけ。リンパ球は体中をぐるぐるまわるが、リンパ節から出たリンパ球は、胸管を通じて血管に入り、またリンパ管に戻ることを教えてもらった。でもこの再循環の仕組みがわからないのだという。
この時から、このリンパ球の再循環研究に約50年間取りつかれることになった。当時、白血病も悪性リンパ腫も良い治療法がなく、インフォームド・コンセントもせずに患者は次々に亡くなった。自分は治療より、原因を突き止めるほうが性に合うと、小谷先生に紹介されたPeter McCullagh先生のいるオーストラリア国立大ジョン・カーティン医学研究所に留学した。紺田先生には怒られた。McCullagh先生はリンパ球には免疫機能を制御するものがあることを突き止めていて、実は多田先生がサプレッサーT細胞の存在を提唱したり、アメリカのDick GershonがサプレッサーT細胞を発見したりする前に、論文発表していた。でもオーストラリア国内の学術誌にしか発表していなかった。彼は胎児と母親との間で拒絶反応が起こらないのは抑制性のT細胞のためではないか考え、私にそれを調べてはとのことだった。しかし、見つからず、胎盤が母と子の間の免疫調節に重要な役割を果たすことを突き止めた。それが博士論文につながった。
パリで開かれた国際免疫学会で、スイスのバーゼル免疫学研究所が研究員を募集していることを知り、すぐに連絡をすると運よく採用。1981年からそこで、モノクローナル抗体を使ってリンパ球再循環の研究を始めた。そこには利根川進氏のほか、モノクローナル抗体を作成したGeorges J.F. Köhler などもいた。リンパ球再循環の分子機構について調べた。そのころ、スタンフォード大のIrving Weissmanのグループが、リンパ球表面に再循環を阻害する分子「L-selectin」があることを突き止め、それを「ホーミング・レセプター」と名付けた。T細胞、B細胞の表面には、「ホーミング・レセプター」が出ていて、リンパ球が血管を巡って、高内皮細静脈(HEV)に到達すると、L-selectin依存的にリンパ節に移動する。そのHEVの内皮細胞には、L-selectinのリガンドが発現していて、L-selectinが結合すると血管の内皮の間隙が開いてリンパ球がリンパ節に移動できる仕組みであることがわかった。再循環は、こうしたホーミング・レセプターと接着分子だけではなく、内皮から発せられる化学物質(ケモカイン)も重要で、リンパ球を引き寄せていることがわかった。あたかも飲兵衛が赤ちょうちんに引き寄せられて居酒屋に行くようなイメージだ。
ホーミング・レセプターは、先を越されたが、我々も重要なホーミング・レセプターとして機能する接着分子を見つけた。「インテグリン」と接着分子「ICAM-1」だ。これがないと、L-セレクチンがあっても再循環が起こらなかった。東京都臨床医学総合研究所にいた1990年ころの話。
このインテグリンとICAM-1の結合をモノクローナル抗体でブロックすると、免疫反応が抑えられ、移植、特に心臓移植がうまくいくことがわかった。
そのあと、心臓移植に力を入れようとした大阪大から声がかかり、1994年医学部附属バイオメディカル教育研究センター臓器制御学研究部教授として赴任。その後もリンパ球の再循環、免疫調節の研究を続ける中で、ホーミング・レセプター、接着分子、ケモカインのほかに、脂質「リゾホスファチジン酸」(LPA)の働きを明らかにした。カスケード反応で、どれが一つ欠けても再循環が起こらない。興味深い仕組みだ。
ただ、これらを完全にブロックすると、免疫抑制が効きすぎ、生体防御反応がうまく働かなくなってしまう。これをいかに調節していくか、匙加減が難しい。
その後、阪大の「世界トップレベル国際研究拠点プログラム(WPI)」である免疫学フロンティア研究センターや博士課程リーディングプログラムにかかわったほか、2013年からは5年間、フィンランド学士院の研究費で、トゥルク大のSirpa Jalkanen教授と共同研究と学生の指導に当たった。ここでは男女平等を強く感じた。院生もポスドクも6割が女性。女性研究者が妊娠出産して一時離れても、また戻れる環境が整っている。日本の男女共同参画がいかに遅れているかを感じた。
こうしたリンパ球の再循環の研究で、半世紀。最初の疑問、興味にこだわり続けて取り組んできた。心臓移植などにおける免疫調節の研究にそれなりの貢献できた。免疫学研究はとても面白い分野だと思う。
- 免疫学会の思い出
海外が長かったので、日本免疫学会では国際担当理事として、「国際免疫学会」(IUIS)の国際会議(ICI)の日本への誘致という大役を仰せつかった。この誘致活動には苦い、そして良き思い出がある。
国際免疫学会議は3年に1度開催され、そこでの理事会で6年後の開催地を投票で決めている。2001年ストックホルム会議での理事会で、「Osaka」が手を挙げたが、リオデジャネイロに1票差で負けた。政治的なかけひきもあり、このままでは引き下がれないと、次に備え招致委員会を再編成した。
岸本先生の発案で、開催地は「Kansai」とし、当時の日本免疫学会の高津聖志会長の強い支援を受けながら、キューバ、カメルーンなど5大陸を駆け巡った。その甲斐あって、2004年のモントリオールでの理事会で、対抗馬のローマに大差をつけリベンジ。日本に国際免疫学会を招致することに成功した。
2010年に神戸で開かれた国際会議は、岸本先生が会長を務められ、組織委員会事務局長だった私は準備段階からよく叱られたが「サイエンスを強調するプログラムにせよ。日本免疫学会の真髄をみせよ」と言われたのはよく覚えている。その結果、14回目を迎えた国際免疫学会議は、参加者は優に6000人を超えて過去最大、製薬会社などのスポンサーシップも集まり、盛大なものになった。1983年に日本で最初の京都会議に次いで行われ、日本の免疫学を世界にアピールできたと思っている。
私が2007年免疫学会会長に就任した時に、教育熱心で広報委員長を務めた高浜洋介・徳島大学教授から「免疫とはなにか」「免疫の役割」は何か、もっと一般向けに知らせることはできないかと持ち掛けられた。
そこで免疫学会として2つの一般向けアウトリーチ活動を行うことにした。一つは小中学生向けの本。イラストをふんだんに使った「からだをまもる 免疫のふしぎ」(羊土社、2008年)。2010年の国際免疫学会の会議で本を展示すると、欧州の免疫学会の関係者が興味を持ってくれ、のちに英訳本が出版された。現在は、スペイン語、ペルシャ語など25か国で翻訳本が出版されている。
もうひとつは、実際に免疫を体感、体験できるような催し。2007年5月に東京台場の日本科学未来館で「免疫ふしぎ未来」を2日間開催した。免疫の基礎的メカニズムの解説や臨床応用、アレルギー反応などが、免疫細胞の顕微鏡写真や、立体模型、実験動物などともに展示・解説した。3700人近くが訪れるなど大好評を得た。その後、免疫ふしぎ未来は、幼稚園児向けに行われるなど各地で毎年、開催されるようになり、一般の方々が免疫に興味を持つ機会となっている。若い人たちが頑張ってくれているおかげだと思う。
- 免疫学会への期待
新型コロナウイルスで重症化するのは、体内で免疫が暴走する「サイトカインストーム」が起こるためとされる。残念に思うのは、この新しい感染症に対し、免疫学会が、社会に向けてあまり発信できていないことだ。
例えば、新型コロナ感染症が拡大し始めたころ、ある専門家が「日本人はコロナウイルスに長い間さらされ、集団免疫ができているので安心」といった発言したときに、何も反応しなかった。集団免疫ができているなら、100人を超えるクラスターなど発生しない。
新型コロナウイルス感染予防にBCGワクチンが効くかもしれないといわれた。日本ワクチン学会、日本小児科学会、日本感染症学会は、「効くかもしれないが十分なエビデンスがない。BCGは子供のために必要である」という趣旨の見解を発表した。大事な話なのにも関わらず、日本免疫学会からは何も発言がなかった。
こういう状況の時に責任を持った科学的見解を発するのが科学者の社会的責任であり、学会の役割だろう。ワクチン接種に関して、日本人はワクチンにたいする忌避意識が強いが、メリット、デメリットをわかりやすく、明確に示した上で、ワクチン接種の意義を伝えることも大事。それを学会として進めることを期待している。
私が学会の役員をしていた時、学者は学問、研究が大事で、社会的な働きかけはいらないという風潮があった。今回、COVID-19のまん延で、日本の体制の遅れ、不備が明らかになった。PCR検査の遅れ、感染症研究所が一つしかないなどの感染症研究の遅れ、医療体制の不都合など。COVID-19研究では、完全に中国に水を開けられた。こうしたことを許したのは、我々の責任だと思っている。自分たちの時代でできなかったことを期待するのは虫がいいが、ぜひとも実現してほしい。私も一線から離れ、ここ3年、蓄積を社会に還元するために本を書いている。「免疫力を強くする本」「新型コロナ7つの謎」などの本を出したが、もっと若い人たち向け、そしてもっと一般向けにわかりやすい本を書きたい。
日本の免疫学のレベルは高く、若手も育っている。ただ、相対的には国際的地位が低下しているかもしれない。これまで国際免疫学会(IUIS)の理事に、日本人が名を連ねていたが、現在はない。若手研究者が海外に行かず、知己が少ないことなどもある。我々の若いころ、免疫学の黎明期は、海外に行かないと情報も技術も得られなかった。しかし、今は国内で事足りる。しかし、違う環境に身をおき、人と交流することは大事。ただ、こういうことができない裏には、大学のポスト不足などもある。学会が中心となって、若手研究者を短期間でも海外に送り込むなどの仕組み作りも大事だと思う。幸い、独創的研究への熱意、社会への発信など若手研究者らの問題意識は高い。彼らの頑張りに期待している。