笹月健彦会長(1995-1996)

  • 研究の思い出

 福岡市に生まれた。高校の同級生の「俺は医学部に行く」という一言でひらめいて1959年九州大医学部に進んだ。

 当時、医化学教授だった山村雄一先生が入学式の翌日オリエンテーションで、「諸君が九州大学医学部にやって来たのは医者になるためではない。未解決の医学そのものを諸君の力で前進させるためにやって来たのだ。諸君の健闘を祈る」と檄を飛ばされた。1961年、学部進学時には「我こそはと思う者は教室に来い」といわれ、講義が終わると毎日、研究室に顔を出し、実験を手伝うようになった。これが基礎研究見習いの始まりであった。

 山村先生は、1962年4月に大阪大学医学部の内科学教授に異動された。医学部を卒業し、インターンを終えようとしていた1966年の正月に、山村先生から年賀状を頂いた。

 「一剣を引っ提げて阪大へ来よ」と書かれていた。私は、山村先生が阪大に行かれた後、九大理学部の泉屋信夫教授の下で化学の勉強をし、さらに工学部和栗明教授の紹介もあって東京医科歯科大大学院へ進み人類遺伝学を学ぶことを決めていた。山村先生の熱い情に打たれ、悩んだが、初志を貫いた。

 東京医科歯科大学遺伝病研究施設で柳瀬敏幸教授から与えられたテーマは「ヒトのハプトグロビン(Hp)の多型性の意味」であった。HpはHbの「ペルオキシターゼ活性」を高める蛋白分子としてフランスのM.Jayle博士によって1938年に発見された。

 HpはHp1遺伝子とHp2遺伝子が存在し、免疫グロブリンと構造上類似し、Hbと特異的に結合することから、ウサギにヒトHbを注射して、ヒトHbに対する抗体を作らせ、他方、ウサギのHpは、種を超えてヒトHbとも結合することからウサギのHpとヒトHb複合体およびウサギ抗体とヒトHb複合体を用いて両者の物理学的、生化学的、および免疫学的特徴を次々解明した。

 その頃、米テキサス大のグループが、Hp2を持つ人は、いくつかのバクテリアに対する血中抗体価が高く、Hp2遺伝子が生存に有利に働いているとの推測であった。免疫応答とHpが結びつくと感じ興奮し、マウスの免疫応答遺伝子を発見したスタンフォード大のHugh O. McDevitt教授のところに留学しようと決意した。1973年、McDevitt教授からスタンフォード大にResearch Associateとして受け入れるという返事が来て喜んだ。

 しばらくして、Hpを発見したパリ大学のJayle教授から、Hp発見30周年を記念してヘム蛋白の構造と機能に関する「EMBO Workshop」をパリで開くので招待するという手紙を受けとった。パリ大学の講堂で開かれた会議で、私の講演が終わったところにサングラスをかけた一人の老紳士が杖をついて、上品な老婦人に手を引かれ私のところに歩み寄られた。

 「貴君こそが未だ詳細不明のHpの真の役割を解明してくれる人だ。研究を続けて答えを私に知らせて欲しい」と言って私の手をじっと握って離されなかった。この老紳士こそがHpの発見者Jayle教授その人であった。若き生化学者の頃、ペルオキシダーゼ実験中のフラスコが爆発して両眼ともほぼ失明したという。その後、夫人に論文を読み聞かせてもらい助手を使って研究を続けパリ大学生化学教授になったという。私は、研究をHpから免疫応答遺伝子に変更し、スタンフォード大学に留学しようと決心したばかりの時であり、深い感銘に打たれながらも、ただ静かに首(こうべ)を垂れるのみであった。

 2ヶ月後、私はカリフォルニアの青い空と皆が誇る真っ青な空の下、免疫遺伝学という新しい学問分野を切り開いたMcDevitt教授のグループに勇躍参加し、「ヒト免疫応答遺伝子」を目指し、火ダルマとなって研究をスタートした。週末にはどこかでパーティが開かれ、教授を中心に熱い議論が交わされた。当時は、世界中のどの研究室もほとんどマウスを用いた研究に没頭し、ヒトを対象とした研究では、成果はなかなか得られず「マウスに非ずんばヒトに非ず」という雰囲気が漂っていた。

 そこでまず破傷風ワクチン、ジフテリアワクチンなど様々なワクチンを打った人の抗体価に差が存在することを確認しようと、大家族から血液を集めて、免疫応答の個人差を調べることにした。評価に使った遺伝子マーカーがHLAである。HLAは、フランスのJaen Dausset教授が、1950年代に、何度も輸血を受けた患者の血液に白血球凝集に関わる抗原として発見した。その後、スタンフォード大学のRose Payne教授やオランダ・ライデン大学のJon van Rood教授、オックスフォード大学のWalter Bodmer教授、カリフォルニア大学のPaul Terasaki教授など、世界中の研究者がヒトの個人差の中で最も膨大な個人差(多型性)を示すことを確認した。

 HLAはその膨大な多型性から免疫応答に関与していることを確信し、研究に取り組んだ。HLAクラスⅡ分子と後に呼ばれる多型分子の同定法(MLR)を駆使し、新しい対立遺伝子群も発見した。自己免疫疾患とHLAとの関係なども精力的に調べ、その後の研究の礎を築くことができた。

 3年はあっという間に過ぎ、1976年に東京医科歯科大難治疾患研究所助教授として日本に帰国した。人類が自然に暴露された様々な抗原に対する免疫応答と遺伝マーカーとの解析がスタートした。

 スギ花粉症の存在を初めて報告した東京医科歯科大耳鼻咽喉科の斎藤洋三先生と共同研究をした。患者は全員スギ花粉に対する抗体を持ち、そのうち80%の人はHLA-DP5陽性であることを証明した。 

 さらに、山梨県韮崎市周辺に広がる風土病「日本住血吸虫症」にも取り組んだ。病気にかかって治った人に肝硬変が起こりやすいと報告されていた。患者の血中抗体価を調べると、住血吸虫に対する抗体価が高いと肝硬変になりやすく、HLAのDw12を持っている人は抗体価が低いことを確認した。

 自然に暴露した溶連菌抗原に対する免疫応答にも個人差が認められ、高応答者はHLA-DR4、DRw53が、低応答者はHLA-DR2と相関することを明らかにした。

 このように抗原特異的に免疫応答性が高応答者と低(非)応答者とに分かれ、それと相関するHLAのタイプが異なることから、HLAが免疫応答の遺伝的制御に関与することを強く示唆することが出来た。ただし、このような自然に暴露された抗原に対する免疫応答は、抗原の単一性や暴露された抗原の量、さらに暴露されてからの時間などを規定出来ないことが弱点であった。

 このため、医学生の協力を得てリコンビナントタンパクなど単一蛋白抗原であるワクチンを抗原として、定量的かつ計画的に免疫し応答を解析した。B型肝炎ワクチンとテタヌストキソイドに対する免疫応答を調べた結果、B型肝炎ワクチンに対する免疫応答はHLA-DR4、DRw53、DQw4が非応答、テタヌストキソイドに対してはHLA-DHOが低応答であった。これまでのすべてのデータから、それぞれ特定のHLA-クラスⅡ分子がそれぞれの免疫応答と相関することから、HLAクラスⅡこそが免疫応答を支配する遺伝子に違いないと確信した。そこで世界で最初に作製したHLAクラスⅡ遺伝子導入トランスジェニックマウスを用い、免疫応答を解析した。HLA-DR51トランスジェニックマウスは、ヘマグルチニンペプチドに対する高応答性を支配し、一方HLA-DQ6トランスジェニックマウスはM6C2ペプチドに対する高応答性を支配することから、HLAクラスⅡ遺伝子そのものが特定の抗原に対する免疫応答を直接支配していることを決定的に証明した。

 以上の結果から、免疫応答が原因となる自己免疫疾患、アレルギー疾患、さらに感染症などは、HLAクラスⅡ遺伝子が病因として最も重要な役割を演じていることが推測された。そこで、40種類に達する免疫応答関連疾患とHLAの関係を調べ、すべてHLAの特定の遺伝子と疾病発症の統計学的相関あるいは遺伝学的連鎖を証明した。

 その中で、興味深いのに橋本病とバセドウ病がある。橋本病は九州大学医学部第一期卒業生の橋本策氏が見つけた病気なので長年注目していた。

 バセドウ病は、HLA-DP5と相関し、甲状腺ホルモン受容体(TSHR)に対する抗体が産生され、甲状腺を恒常的に刺激しバセドウ病となる。片や橋本病は、HLAのA02:07と相関し、キラーT細胞が産生され、甲状腺細胞を破壊、甲状腺機能低下症となる。HLA-DP5により抗TSHR抗体が産生されると、この抗体は甲状腺細胞のアポトーシスを阻止する。すなわち橋本病をブロックすることになる。但しこの抗体を産生することでバセドウ病を発症することになる。スタンフォード大時代からバセドウ病の研究を始めたが、橋本病からバセドウ病へ臨床的に転換することも知られるようになり、これにもHLAが関与している様である。

 

 HLAと疾患とのかかわりで世界的に注目されたのが、骨髄移植におけるGvHD(移植片対宿主病)とHLAの関係である。骨髄移植の際にドナーとレシピエントのHLA型がミスマッチだと、GvHDが起き、移植が成功しないだけではなく致死的となることもある。それまで骨髄移植で重要なのはHLA-クラスⅡの遺伝子座のマッチングだと考えられていたが、実はGvHDを防ぐにはクラス1遺伝子のマッチングがより重要であるということを世界で初めて証明した。1998年にNew England Journal of Medicineに発表した当日、New York Timesが大きく取り上げ、患者や家族だけでなく社会的に大きな反響を呼んだ。これは日本国内の骨髄バンクが整備され、症例が多いこと、さらに6つの遺伝子座の多型をDNAレベルで綿密に解析できたことが大きかった。

 

 以上のように免疫遺伝学分野で、HLAを通して免疫応答の多様性、多型性を中心に据えて免疫システムの本質の理解を目指した。中でも胸腺におけるHLA分子の機能による免疫システムの構築も明らかにすることが出来た。好奇心に引き寄せられ、新しいこと、未知のことを知りたいという一心で取り組んできた。医学生時代、大学院生時代、スタンフォード時代に出会った世界中の恩師、友人達、そして研究グループに参加してくれた同僚、大学院生、学生に恵まれた。心から感謝したい。

  • 免疫学会の思い出

 私は日本免疫学会会長の時に、免疫学会学術大会を日本免疫学会創立25周年記念大会とした。1995年11月28~30日、福岡市のアクロス福岡を会場に、欧米7ヶ国からH. McDevitt、W. Paul、 P. Marrack、 K. Rajewsky、 利根川進、F. Melchers、Tak Mak、 D. Mathis、 M. Davisなど外国人研究者を27人招き、9個の国際シンポジウム「Molecular Basis of Immune Regulation」を開催した。学術集会の中に9つの英語でのシンポジウムと9つの日本語でシンポジウムを行った。どの会場も、免疫学会設立当初の熱気と活気に溢れるものであった。当初、国内の学会なのに英語でのシンポジウムに難色を示す人もいたが、「日本人だけの国民体育大会をやっても世界に通用しない。国際オリンピックにするには英語での発表と討論が不可欠だ」と説得した。多数の外国人が参加し英語で発表・討論した免疫学会初めての学術集会となった。

 この学会の前日に市民講座「免疫とは-アレルギーからエイズまで」を開催し、利根川進先生、多田富雄先生、岸本忠三先生に講演をいただいた。高校生、大学生、一般市民ら大勢の参加を得、特に次代を担う若者の参加が多数みられた。

 

 1997年1月から2000年1月まで、アジア・オセアニア免疫学会連合会の会長を日本人として初めて務めた。当時は、日本、オーストラリア、韓国の8つの免疫学会が加盟し、ロシア、シンガポールなど7つの免疫学会がオブザーバー参加していた。若手研究者のトレーニング、学会などを通じてアジア・オセアニア地区の免疫学研究のレベルを底上げした。こうした活動は、日本がこの地域の指導的な立場で、牽引していく意味でも重要であった。

  • 免疫学会への期待

 免疫学会にとって重要なミッションは免疫学の真髄を明らかにし、さらにこの真髄を明らかにすることが出来る若者を育てることである。この2つのことを願って、特に人材育成の観点から日本免疫学会に期待して考えを簡単に述べる。

 まず、誰をターゲットとするか。若ければ若いほど良い。幼児から幼稚園児までが第一で、これには教育システムを必要とせず、両親、祖父母による語り掛けと優れた絵本だけで良い。これを可能ならしめるためには、両親、祖父母など全国民自身が「免疫とは」「免疫の不思議」という疑問にさらされていることが必要である。今回のコロナパンデミックを絶好の機会と捉え会員が正しい知識の普及に努めて頂きたい。

 第二の年代は免疫学会会員が卒業した小学校、中学校、高等学校の生徒をターゲットとした出前授業である。全国各地を網羅した仕組み、体制作りを工夫して欲しい。

 最後に大学生をターゲットとしたMeet the Professorの普及を望む。外国から学会その他のMeetingのために来日した免疫学者に少人数の学部学生がグループで自由に免疫学を中心に意見の交換、質疑応答を行う機会をMeet the Professorとして提供してほしい。これは、必ずしも国外の研究者に限らず国内の研究者との機会を作ることも考慮してほしい。