菅村和夫理事長(2011-2012)

  • 研究の思い出

 

 長崎県の佐世保に生まれ、若い頃は自称アルピニストであった。山岳部に所属した佐世保北高を卒業する時に医学部の基礎研究系に進めば、疫学研究の一環で世界中の山やへき地に行けると思った。東北大に行ったのは、雪山に憧れていたからである。学生時代は年間100日以上を山で過ごし、卒業の年はアラスカの5000mの山をスキーで縦走するなどして、登山三昧の生活だった。大学院はウイルス感染のフィールドワークができそうな石田名香雄教授(故人)の細菌学教室を選んだ。当初はセンダイウイルスを研究テーマとしていたが、アメリカでタンパク合成を研究して帰国したばかりの助手の小野魁先生(故人)から「免疫は面白い」と毎晩レクチャーされる内に、免疫の研究にはまった。後先顧みず、免疫学最大の課題であった抗体(免疫グロブリン)の遺伝子単離に取り組んだが、mRNAの精製すらままならず、1年半で断念した。この状況を見兼ねた教授は、私に方向転換をさせるためか、南米インディオのB型肝炎ウイルス(HBV)疫学調査を勧めた。アンデスやアマゾンに行ける、まさに願ったり叶ったりの計画だった。ペルーのアンデスとアマゾン川上流のインディオ部落に2か月間程滞在し、約1000人の血液を採取し調べたが、HBVの感染率も抗原サブタイプもアジア人と大差なかった。

 1974年、大学院を修了しても劣等生の私には居場所がなく、B型肝炎ウイルスを発見したBlumberg先生(故人)のポスドクとして、米フィラデルフィアにあるFox Chase癌研究所へ留学した。ここでは非A非B肝炎ウイルスの探索を目指していたが、丁度この時期に、後にノーベル賞の受賞対称となった「キラーT細胞の抗原認識におけるMHC拘束性」に関する論文がZinkernagelとDohertyによって発表された。この研究にセンダイウイルスが用いられていたことに刺激され、再度、免疫研究へと心が動いた。

 そこで米ウインスコンシン大のFritz Bach教授の面接を受け、1976年にポスドクになった。リンパ球混合培養法でHLA(ヒト組織適合性抗原)タイピングを確立したことで有名なBach先生から免疫学の手解きを受けた。センダイウイルスを扱える強みを生かし、ウイルス特異的キラーT細胞の誘導系をin vitroで確立し、論文がNatureに掲載された。ポスドクには土日はないと云わんばかりの厳しい先生であったが、納得するまでdiscussionに付き合ってくれる素晴らしい指導者だった。専従のテクニシャンをつけてくれるほど環境も良かったが、通算アメリカ滞在が4年を経過し、ビザが切れるのを機に、1978年に熊本大医学部微生物学の日沼頼夫教授の下に助手として帰国した。

 熊本大でも、EBウイルス特異的ヒト・キラーT 細胞誘導系を確立し、EBウイルス腫瘍化細胞に対するヒト免疫応答の仕組みを解明しようとしていた。しかし2年経つと、日沼先生が京大ウイルス研究所に異動したので、私も助教授としてついていった。その後半年もしないうちに、日沼先生は「成人T細胞白血病(ATL)」の原因ヒト・レトロウイルス(後のHTLV-1)を発見した。助教授の私にも半ば内緒で研究が進められ、1982年に論文が発表されたが、この時の衝撃は忘れることはできない。笑い話だが、この時、日沼先生から、「君はいつまでEBウイルス研究をやっているんだ」と叱咤された。

 HTLV-1が成熟T細胞を不死化させるウイルスであったことは、私の免疫研究にとっても幸運だった。IL-6やインターフェロンなどのサイトカインの高産生細胞株を容易に樹立できたことで、IL-6研究にも貢献できた。私はT細胞の増殖・不死化のメカニズムに興味を持っていたので、IL-2 受容体の研究にシフトした。IL-2遺伝子は、1983年に谷口維紹先生(当時・癌研究会癌研究所部長)によってクローニングされた。受容体の研究では、1984年にα鎖遺伝子が京大の本庶佑先生や米国のグループによってクローニングされたが、α鎖だけでは機能的な受容体は構築できなかった。私は1986年に東北大教授として仙台に移ったが、当時大学院生であった竹下敏一君(現・信州大学医学部教授)がβ鎖に対する単クローン抗体を樹立した。抗体があれば、β鎖の遺伝子クローニングは時間の問題と高を括っていたが、1989年に谷口維紹先生らのグループに先を越された。しかし、竹下君がβ鎖に会合する分子が存在することに気付いていたことで、1992年にγ鎖遺伝子をクローニングすることができた。竹下君があきらめずに取り組んだ成果で、とても驚いた。こうしてIL-2受容体がαβγ3分子複合体から構成されることを証明できた。

 さらに驚いたのは、1993年に米衛生研究所(NIH)のWJ Leonard先生のグループがγ鎖の染色体マッピングを基に、γ鎖が「XSCID」(X連鎖重症複合免疫不全症)の原因遺伝子であることを証明した時である。XSCIDは、T細胞やナチュラルキラー細胞(NK細胞)が欠損することで発症する免疫不全症であるが、その原因がγ鎖の変異であった。我々も染色体マッピングをしていたので、遅れをとって残念な思いをした。しかし、γ鎖変異によるIL-2受容体の機能不全ではXSCIDの病態を説明することができず、γ鎖が他のサイトカインの共通受容体サブユニットである可能性が考えられた。当時院生であった近藤元就君(現・東邦大学医学部教授)は、γ鎖がIL-4やIL-7の受容体サブユニットであることを突き止めた。同様な結果がLeonard先生らからも報告され、γ鎖はサイトカイン共通受容体“commonγ鎖(γc鎖)”と呼ばれるようになった。その後、我々や米国のグループが、γc鎖がIL-9やIL-15やIL-21の受容体サブユニットでもあることが明らかにした。XSCIDの病態であるT細胞やNK細胞の欠損はそれぞれIL-7受容体やIL-15受容体の機能不全に起因することが証明された。γ鎖の発見がXSCIDの原因究明、遺伝子診断、病態解明をもたらしたのである。

 2000 年に我々はγ鎖欠損マウスを樹立し、このマウスをXSCIDモデル動物として用いて、造血幹細胞へのγ鎖遺伝子導入によるXSCIDの遺伝子治療の有効性を報告したが、同時期にフランスのA Fisher先生らは、世界で初めてXSCID患者の造血幹細胞へのγ鎖遺伝子治療を実施し、成功したことを発表した。後にこれら患者から白血病が発生したことがわかったが、現在はγ鎖遺伝子導入法も改良され、XSCIDに対して安全な遺伝子治療が実施されている。

 その後、我々のγ鎖欠損マウスは、実験動物中央研究所で別の免疫不全マウスと交配され、殆ど免疫能がないNOGマウス(超免疫不全マウス)に生まれ変わった。NOGマウスは、今や様々なヒト化モデルマウスとして活用され、がん等の創薬研究やヒト細胞の分化機能解析等の基礎研究に有用な実験動物になっている。

 

 負け戦も多かった研究活動であったが、γ鎖の発見によって少しは医学・医療の進歩に貢献できたのではないかと思っている。

  • 免疫学会の思い出

 学会デビューは、米国留学から帰国した1978年に発表した「in vitroにおけるセンダイウイルス特異的Killer T細胞の誘導」であった。当時免疫学は、まだ若い学問で、学術集会では若手研究者が列をなして質問に立ち、時には厳しい議論もみられ、活気に満ちた雰囲気が漂っていた。

 その後、学術集会では国際シンポジウムが組み込まれ、外国から著名な研究者を招待することで、交流の幅が広がった。そういう中で、IL-2受容体研究でライバルでもあったLeonard先生とは苦い思い出もある。我々はIL-2受容体β鎖の精製に成功し、そのアミノ酸配列をさる企業に依頼して決定した。それを基に、T細胞遺伝子ライブラリーからβ鎖遺伝子クローニングを試みたが、何ヶ月経っても成功しなかった。我々が梃子摺っているのを見兼ねたLeonard先生が手伝ってくれることになった。彼らはT細胞以外の細胞を用いて遺伝子クローニングに成功したが、得られた遺伝子は当時報告されたばかりのHGF(幹細胞増殖因子)であった。驚いた私が外注先に問い合わせたところ、当時外注先でHGFのシークエンスが行われていたことがわかった。どういう手違いか、我々が手にしていたのはβ鎖ではなく、HGFのシークエンスであったということである。この件に関しては、今でもLeonard先生には申し訳ない思いである。

 日米、日独、日仏の合同免疫シンポジウムにも何回か参加した。少人数でゆったりと議論ができる素晴らしい集まりであった。ボルドー郊外での日仏シンポジウムの折に伝統あるワイナリーを訪問したのも楽しい思い出である。1980年代のいつだったか、ハワイでの日米シンポジウムで、米原伸先生(現・京大薬学研究科ナノバイオ医薬創生科学講座教授)が奇妙な単クローン抗体を樹立したことを発表した。補体非存在下で細胞にかけると、細胞が直ぐに死んでしまうという抗体だった。当時アポトーシスの概念も知らず、半信半疑で聞いていたが、後に、この抗体を用いて長田重一先生(現・阪大免疫学フロンティア研究センター教授)がFas遺伝子を発見したのである。分子レベルのアポトーシス研究の始まりでもあった。

 2000年に仙台で学術集会を開催した後、日米独の3ヶ国合同免疫シンポジウムを蔵王の遠刈田温泉で開催し、Melcher先生(当時国際免疫学会長)始め、錚々たる顔ぶれが集い、夜中まで論じ合った楽しい思い出もある(写真添付)。2011年から2年間理事長を務めたが、特別な企画は設けなかった。阪大の荒瀬尚教授が「ペア型レセプターによる(ヘルペスウイルス)の免疫回避機構」で、免疫学会賞を受賞したことを覚えている。

 私にとっては、免疫学会を通じて国内外の素晴らしい研究者と出会えたことが研究活動を続ける上での大きな財産になったと思う。

  • 免疫学会への期待

 免疫学のすそ野は広がり、生命科学の基礎研究と臨床医学の応用研究とが一体化した研究領域となっている。生体内の免疫機構の解明は、様々な病気の発症メカニズムや治療法開発に直結することから、免疫学研究には基礎と臨床の両サイドからの研究者の参加が不可欠である。学会はそうした橋渡しをして欲しい。最近耳にすることは、基礎系免疫学研究室に入ってくる臨床系研究者が少なくなっているということである。学会主催のシンポジウムや学術集会のプログラムなどを工夫して、臨床系研究者が参加したくなるように工夫することも大事であろう。

 私ができなかったことを前提に言うが、免疫学はあまりにも幅広くなり、自分の研究の立ち位置が判然としない場合が多くなっているのではないかと危惧される。免疫系の何に興味を持ち、何を明らかにしたいのか、常に居場所、目指すところを明確にしていくことが大事である。そしてもう一つ、自分の実験系の中にオリジナリティーの高いメソドロジーを確立することも大事である。今や、お金をつぎ込めば、遺伝子や蛋白分子を網羅的に解析できる時代ではあるが、これだけでは独創的な研究は生まれない。自分なりのメソドロジーを見つけることも大事である。そのためにも研究者が情報交換を十分に行えるように学会の運営を目指して欲しい。

 学会が行っている一般向け「免疫ふしぎ未来」は免疫科学の面白さを若者へ伝えるにはいい機会だ。私は、学生に講義する時には、知識を伝えることより、免疫学やウイルス学の面白さを伝えることを心掛けてきた積りである。この点で、「免疫ふしぎ未来」がさらに大きく展開していくことを期待している。

 昨年来、世界で猛威を振るっているCOVID-19は人類にとっての新たな試練である。このような感染症を克服する上で免疫研究者の働きは不可欠であり、学会の役割も大きいと思う。