多田富雄会長(1985-1988)

  • 多田富雄先生の思い出(谷口克先生インタビュー)

 「天は二物を与えた」

 

 多田先生を一言でいうなら科学の才能と、文才を備えた稀有な人だったということに尽きる。いい意味で、不思議な変わり者だ。

 1966年、米コロラド州・デンバーの小児喘息研究所にいた石坂公成・照子夫妻が「免疫グロブリンE(IgE)」を発見した。この時、背中を貸してその画期的な成果に貢献したのが多田先生。余談だが、IgE抗体検出のために行われたPCA反応の背中の写真は、石坂先生が天皇陛下にご進講された際に、披露された。

IgE発見は日本免疫学発展の礎となったが、これをもって免疫化学は終焉し、T細胞や、B細胞などによる細胞免疫学が台頭することを多田先生は予見していた。

 そのメルクマールが、1971年の第一回国際免疫学会において、「T細胞の中に、免疫反応を抑える『サプレッサーT細胞』が存在し、胸腺摘出により免疫抑制が解除され、逆にT細胞移入により抗体産生を抑制できた」と発表したことだった。世界で初めて「T細胞には免疫制御機能がある」という概念の提唱だった。

 当時、抗体産生するB細胞などに働きかけて免疫反応を起こす「ヘルパーT細胞」が注目されていた。しかし、免疫反応は時間の経過とともに終息する。それは積極的に免疫反応を抑制する細胞が存在するからに違いないという、鋭い眼識だった。免疫を抑制する細胞がいないと間違って発生した自分を攻撃する細胞による自己免疫疾患が起こりうる。これを回避する仕組みが必要、いわばフェールセーフ (Fail safe) 機構という概念であり、免疫寛容という仕組みでもあった。

 この概念の提唱は、細胞免疫学の幕開け宣言といえるだろう。私(谷口)が免疫学を極めようと千葉大大学院に入学し、病理学教室に身を寄せていた頃、多田先生がアメリカから帰国し、急遽地下物置を改造して作った実験室で、同期の奥村康(現順天堂大学教授)とともに研究を始めた。

 多田先生に叩き込まれたサイエンスの基本は私の背骨となっている。変わり者といったのは、一つのことでも別の見方ができるということを徹底的に教え込まれたからだ。先生から教わったことは4つある。

1.研究をするときは人と違うことをする

2.一旦始めたら簡単にはあきらめない

3.実験の結果、自分の仮説が誤りと悟ったら、さっさと撤退する

4.研究はバラの香りの様に美しくあらねばならい

 

 最後は多田先生らしい美学。1974年、多田先生のために千葉大に免疫学研究部門が設置され、初代教授に就任した。この裏には、当時の田中角栄首相が免疫学の重要性を理解してくれたことがある。当時、大学院生だった私は長岡出身ということで、同郷の田中首相の後援会である越山会を通じて、多田先生と東京・目白にある首相の私邸にお願いに上がった。多田先生が免疫学の重要性を説くと、田中首相は「よっしゃ」と言って願いをかなえてくれた。

 多田先生は常に世界に目を向けていた。日本免疫学会が初めてホストになって、1983年に開催した第5回国際免疫学会では、山村雄一会長のもとプログラム委員長として駆け回り、魅力ある学術集会に仕立てた。世界から4000人を超える研究者が集まり、T細胞受容体遺伝子など多くの画期的な発表が相次いだ。

 日本の免疫学の国際化を推進するため、多田先生の発案により1989年には、日本免疫学会とオックスフォード大出版会(OUP)は共同で、日本初の免疫学の国際ジャーナル「International Immunology」を創刊した。初代編集長に多田先生が就任し、その後、岸本忠三、審良静男両先生に編集長のバトンは引き継がれている。

 1992年には現在83か国の免疫学会が加盟する国際免疫連合(IUIS)の副会長に、そして1995年から3年間は会長を務め、インドで開催された国際免疫学会を主導した。日本国内では阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などが不運な出来事が相次いだ年で、インドに行かれない日本人研究者も少なくなかった。

 1979年千葉大教授から東大教授に移られた。当時、東大出身以外の医学部教授は珍しかった。このころから元々持っていた文学の才能が花開いた。元々、医者には興味はなく、文学部を受験したほど。親戚にはプロの詩人が2人もいたように血筋もあった。最初に進学した早稲田大学文学部では、作家の江藤淳らと同人会活動をしていた。

 しかし、親戚に病院を経営する医師もいて、千葉大医学部に入りなおした。そこで哲学的な思考を好む多田先生の心をとらえたのが免疫だった。同じ抗原で何回も刺激すると病気を発症する「遷延感作」の研究をしていた病理学岡林篤教授の影響も受けたと思う。「自己と非自己」を追究する免疫学が、多田先生に流れる文学への情熱を湧き立たせた。

 代表作の「免疫の意味論」(青土社、1993年)は、「自己」「非自己」を認識する複雑な免疫系システムに焦点を当てているが、一番強調したかったのは、免疫系は、自己を中心とした認識システムということだ。「外部世界をみる仕組み」ではなく「自己中心的で自律的な内部世界監視システム」というのが多田先生の持論だ。常に自己と対比することで成立する、このシステムを「スーパーシステム」と呼んだ。

 厳格な内部監査システムの異常は、自己免疫疾患などの原因になるが、その監視システムを制御するサプレッサーT細胞が働くことによって「寛容」という仕組みができる。この免疫系の寛容のように、人間の世界にも人生の寛容や「(争っている人たちに)互いに寛容になることが大事」と訴えていた。

 「免疫の意味論」は1993年に大佛次郎賞を受賞してベストセラーに。その後も2000年に「独酌余滴」(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイストクラブ賞、2008に「寡黙なる巨人」(集英社、2007年)で小林秀雄賞などを受賞している。

 能に関する本もたくさん書いていて、脳死臓器移植を扱った「無明の井」、核兵器をテーマにした「原爆忌」など新作能も何本も手掛け、中でも「原爆忌」は実際にニューヨーク公演も行われた。

 そんなときに病魔に襲われた。2001年にアメリカ出張から講演のため、山形経由で金沢に入った時、脳梗塞で倒れた。

 無類の酒好きで、血圧が高かった。「45歳を過ぎて生き恥をさらしたくない」という信念の多田先生にとって右半身不随、嚥下・構音障害は屈辱的だっただろう。けっして楽天的ではなく、したたかで、しなやかな精神力が先生を支えた。

 病に倒れてから自宅を訪問した際、シャンパンを開けてくれた。チューブのついた注射器で胃袋に流し込み、出てくるゲップで「シャンパンの味と香りを楽しむんだよ」と得意げに高笑いした。

 言語麻痺が残る人は、「ものを考えられない」ということを医学部時代に教わったが、多田先生にはあてはまらかった。麻痺してない手で、コンピューターを使って、一生懸命努力して文章をつづっていた。「詩を書くことは、病気になってから上手になったよ」とよく言っていた。

 多田先生の遺作となった「残夢整理」(新潮社、2010年)は、青春時代に出会った、印象に残る故人たちとの会話をまとめた鎮魂の書でもある。その編集後記の一節が記憶に残る。

 「この短編を書いている最後の段階で、私はがんの転移による鎖骨骨折で、唯一動かすことができていた左手が使えなくなった。(中略)書くことはもうできない。(中略)執筆活動停止命令に、もううろたえる事もなかった。今、静かに彼らの時間の訪れを待てばいい。過去を思い出したことは、消えゆく自分の時間を思い出すことでもあった」

 原稿を書き上げたのは2010年2月18日。その2か月後、「もういいね」と言って旅立った。本は、その2か月後の6月に出版された。

 さらに2か月後の8月24日。神戸で開幕した第14回国際免疫学会では、一つのセッションとして多田追悼集会「In memory of Prof. Tomio Tada」が開かれた。親交のあったFred Alt、Lee Herzenberg, Max Cooper, Klaus Rajewsky, Fritz Melchers,ら海外の免疫学者のほか、多大な影響を受けた垣生園子、谷口克らが多田先生の思い出を語った。

 私は、ここに記したことのほかに、以下のような言葉を贈った。

 「研究者には、物証をもとに還元論的に現象を解明するタイプと、理論を軸に演繹的に証明していくタイプがある。多田先生は後者で、最初に免疫制御理論を構築し、その後、免疫抑制細胞の存在を明らかにした。生命現象を演繹的に解明することは想像力と独創性を必要とするが、日本人は得意ではない。多田先生は違っていた」

 「人がやらないことを信念としていた先生は実生活でもそうだった。白いフレームの眼鏡、襟なしの背広を特注して着ていた。ご自宅で主催する『馬鹿鍋の会』では馬肉を鹿肉にのせて食べるが、馬肉に鹿肉をのせては馬鹿鍋にならないとダジャレをいっていた。遊び心が旺盛だった」

 

 日本免疫学会には、大きな功績を残したことは間違いない。50周年に迎えた今、我々に何を語ってくれるだろうか。 そんなことを考えながら、多田先生に思いを馳せている。