髙津聖志会長(2003-2004)

  • 研究の思い出

 長野県塩尻市出身で、小さいときは気象観測に興味があった。1960年代、工業立国を目指す機運の中で、同級生の7割は工学部に進学。兄は医学部だったので、別の形で医療にかかわりたいと富山大薬学部に進んだ。しかし薬学部は有機化学、分析化学が主体だったので肌に合わないと思っていた。2年の時に講義に来ていた久保田憲太郎・富山県衛生研究所長の研究室で、実験を手伝うなど教えを受けるようになった。

 微生物の話が面白く、DNAの二重らせん構造解明で注目されていた分子生物学に魅かれ、卒業研究と大学院修士課程は、富山大学の和漢薬研究施設・臨床利用部門に行った。恩師の中島松一先生が大阪大学の山村雄一教授の弟子であったこと、修士課程で聴いた山村先生のがん免疫の特別講義に魅了され、博士課程は、1969年に大阪大学大学院(腫瘍発生学)を選んだ。北川正保教授と濱岡利之助教授のご指導を受け、「抗ハプテン抗体産生における細胞間共同作用に及ぼす抗体の影響」の論文で1973年に医学博士を取得した。

 大学院時代、結核ワクチンとして使うBCGのアジュバント効果、つまりツベルクリンを打つとなぜ免疫が増強されるのかをマウスを使って調べていた。後のIL-5につながる液性因子が存在することを突き止め、1972年の第2回免疫学会に発表した。時は多田富雄先生が提唱した「サプレッサーT細胞」の全盛の時代。誰も興味を示してくれなかった。

 その頃ジョンズ・ホプキンス大の石坂公成教授が、留学中の岸本忠三先生生の後任を探しに大阪に来られた。山村先生から石坂先生に会わないかと言われ、ご尊顔を拝見したいとお願いし、石坂公成・照子先生にお目にかかることができた。採用はあり得ないと思っていたが、石坂先生から「一緒に研究しないか」とお誘いを頂いた。夢のまた夢と思っていた留学が実現して、とてもうれしかった。

 1973年7月にアメリカに渡った。石坂先生のところに留学していた岸本先生は、ウサギのリンパ球を用いてIgE産生を促す液性因子の研究で、世界的に評価される成果をあげていた。自分も液性因子の研究に興味があったが、石坂先生に与えられたテーマはヒトIgE抗体の構造解析。抗体の構造解析は経験なかったので目の前が暗くなった。後で石坂先生に伺うと、「研究者として生きるならきちんと免疫化学の基礎研究をやらないといけない。だから髙津君にこのテーマをやらせた」とのことであった。

 IgE分子に複数存在するジスフィルド結合(S-S結合)のうち、マスト細胞表面のFc受容体と結合するために必須の部位を決定するもので、いわば石坂研のテスト。岸本先生から「うまくいかないと日本に強制送還だな」と脅された。1年弱で、運よく結論を出せた。石坂先生も喜んで下さった。岸本先生には留学中、公私ともに大変お世話になった。

 留学の後半2年はIgE抗体産生の制御の研究に従事した。卵白アルブミン(OVA)をマウスに免疫すると特異的なIgE抗体が産生される。ところが、抗原を尿素変性させると、生体内にあったOVA特異的なIgE抗体と反応せず、新たなIgE抗体の産生も惹起しないし、アレルギー反応も起こさなかった。大量に変性抗原を投与するとOVA特異的な抑制T細胞が生成され、OVAで免疫してもIgE抗体産生を抑制することを見出した。抑制T細胞を試験管内で変性抗原刺激すると抑制活性が強くなった。石坂先生は「抑制T細胞の生産と機能を証明した最初の論文」と評価してくれた。留学は、研究者として歩む自信を植え付けるものとなった。

 1976年阪大医学部助手に採用されて帰国。IgE産生の研究を継続しようと思った。しかし、IgE研究は、大物研究者が多く自分らしさを表現し難かったので、大学院の時に見出した抗体産生を増強する液性因子「TRF(T cell-Replacing Factor)」の研究に焦点を合わせた。岸本先生もTRFの物質的な解明を目指し、先行していた。我々はマウス、岸本先生はヒトでのTRFを突き止めようとしていた。1980年にTRFを恒常的に産生するT細胞ハブリドーマを世界で初めて樹立した。T細胞ハイブリドーマの培養上清からTRFを精製し、単クローン抗体の作製を目指した。

 1982年に熊本大医学部に異動後、精製TRFを免疫したラットの脾細胞を用いた細胞融合により,抗TRF単クローン抗体の作製に成功し1986年に発表した。世界で最初の抗マウスTRF(現在のインターロイキン5,IL-5)抗体だった。この抗体は、モルモットやヒトのIL-5活性も中和し、アレルゲンで誘発した好酸球増多を完全に抑えた。この成果を受けて、オリンパス(株)が国際特許を取得したが、アレルギー疾患を対象にした臨床研究には至らなかった。

 TRFの cDNAの単離に時間がかかっている時、京大の本庶佑教授から共同研究の話を持ち掛けられ、共同研究を決断した。驚くことにTRFの遺伝子単離は5か月あまりで成功し, TRFの遺伝子単離の論文は1986年11月のNatureに掲載された。同じ掲載誌に、岸本先生らのヒトB細胞に抗体産生を促す因子「BSF2」の遺伝子クローニングの論文も掲載された。TRFもBSF2も多種類の細胞に多彩な作用を示すことから、TRFはIL-5、BSF2はIL-6と呼ばれることになった。

 IL-5の遺伝子を単離してすぐにIL-5受容体(IL-5R)の同定にとりかかった。IL-5RはIL-5と結合するIL-5α鎖とシグナル伝達に必須の分子IL-5Rβ鎖から構成されていることを突き止め、1988年に発表。さらに、1990年にマウスIL-5α鎖に対する単クローン抗体を作製し、遺伝子も同定した。引き続き、ヒト好酸球上に発現しているIL-5α鎖の遺伝子クローニングも世界に先駆けて成功した。熊本大の共同研究者の成果であった。

 リコンビナントIL-5はマウスB細胞に働きかけ抗体産生を増強するが、驚くことに、ヒトのB細胞はIL-5に応答がなく、好酸球の分化と増殖に必須であることが分かった。重症喘息では気道などの局所や血液中の好酸球の増殖とIL-5値の上昇とが顕著であるので、IL-5がアレルギー炎症に関与していると考えた。研究とはこういう思わぬことが多々起こる。

 こうした研究成果が評価され、1990年に東大医科学研究所に異動し、IL-5をターゲットにしたアレルギーの研究を本格化させた。マウスやモルモットのアレルゲン誘発喘息モデルでは、局所でのIL-5の過剰産生と好酸球増殖が気道過敏症を引き起こすが、抗IL-5や抗IL-5R抗体を投与すると喘息の発症が抑制されることを確認した。

 協和発酵キリン(株)と共同でヒトIL-5Rに対する抗体作りを目指した。2009年に抗体依存性細胞傷害活性によりIL-5Rを発現しているヒト好酸球を、気道の炎症部位から除去できるヒト型化抗ヒトIL-5R抗体の開発に成功した。その抗体はベンラリズマブと呼ばれ、アストラゼネカ社が好酸球増加を伴う重症喘息の抗体医薬として米国で2017年に上市し、翌年、日本でも認可された。ちなみに、ヒト型化抗ヒトIL-5抗体「メポリズマブ」はグラクソ・スミスクライン社から重症喘息の抗体医薬として2016年に発売された。

 「国際的にはミスターIL-5」と呼ばれ、IL-5とそのレセプターの構造と機能、制御機構の解明をライフワークとしてきた。基礎研究が抗体医薬の開発にもつながり、医療にも若干貢献できたと思う。海外の多くの友人、国内外の共同研究者に恵まれ、国際感覚を磨くことができた。

  • 免疫学会の思い出

 日本免疫学会は自分を育んでくれた場所であり、何をおいても出席すべき重要な学会だった。1971年の第1回学術集会では、3ページの抄録提出と事前選考、口頭発表はスライド20枚、発表時間が30分であり、質問も厳しかった。ある大学院生の発表に、「その研究は2階から目薬を入れるようなもの」と糾弾され、指導教授があたふたしているケースもあった。研究試料のマイコプラズマ汚染が問題なった時に、発表を批判された先生が、批判した先生の発表に「マイコプラズマ汚染はなかったのか」と反論したこともあった。また、ある年の学術集会でサプレッサーT細胞の演題が全くなかった時に、「サプレッサー細胞は本体が明らかになったのか」という声を上げた人もいた。

 2004年から2年間、日本免疫学会会長を務めた。最も苦労したのは、学会を特定非営利活動法人(NPO法人)化したことだ。2004年8月10日の新聞朝刊に、学会事務業務を委託していた「日本学会事務センターが破産へ」というニュースが掲載された。裁判所から財産の保全管理命令がでると、資金の出し入れができなくなり、学会業務ができなくなる可能性があった。実は、我々はこの1か月前に破産の可能性があるとの情報をキャッチし、動いていた。学会の積立金、書類を一時的に他所に移し、NPO法人化に受けて東京都の指導を仰いでいた。「学会のあり方検討委員会」での審議、理事会での議論と承認をへて、総会での会則変更とNPO法人化への移行が了承された。2005年春にNPO法人化が認可され、同年12月にNPO法人「日本免疫学会」が正式にスタートした。NPO法人への移行に際し、経済的に大きな損失もなかった。関係者に今でも感謝している。

 2010年に神戸で開かれた第14回国際免疫学会を神戸に招致したことも深く印象に残っている。日本免疫学会として、1983年の京都で開かれた第5回国際免疫学会(山村雄一会長)以来2度目の国際学会開催を2007年大阪に招致しようと、準備していた。2001年の国際免疫学会連合(IUIS)の理事会では、リオデジャネイロに15対4で勝利したが、翌日の総会で1票差の敗北。日本の関係者はショックに包まれた。

 日本免疫学会会長に就任したとき、2010年の国際学会の招致を目標に据えた。招致に消極的な理事も多かったが、岸本忠三先生を会長として、関西(神戸)で開こうと再度、立候補を決めた。綿密な招致活動を展開し、2004年にモントリオールで開かれたIUISでは、理事会に続く総会で、対抗馬のローマに66対2の大差で勝利。宮坂理事の招致演説も素晴らしかったが、IUIS理事会のメンバーからは「神戸開催は、日本の免疫学研究の実力と質の高さ、広がりが世界に認められた証である」との称賛をいただき、誇らしかった。ただ、学会開催までにIUIS会長から協賛や資金供出など理不尽と思われる要求も多く、困り果てた。しかし、岸本会長・組織委員長と宮坂事務局長のリーダーシップ、実行員会のまとまりと準備の良さで、本番の国際学会は、内容、運営とも申し分なく、日本の免疫学会のレベルの高さと実力を示すことができたのは、大きな喜びだった。

 1995年12月に創刊された「JSI News Letter」の初代編集長を務めた。その年の6月に、菊池浩吉会長から「理事会でInternational Immunologyが希望購読になったので学会員へのサービス向上と情報提供のためNews Letterの発行が決定した。初代編集長になってくれ」と依頼された。戸惑いも多かったが「会員相互の情報交換の場、討論の場にしたい」と走り回り、菊池会長の「創刊のことば」のほか、熊谷勝男先生、村松繁先生、多田富雄先生、岸本忠三先生らの原稿を創刊号に掲載できた。その後、年2回5年間で9号発刊した。3年目頃から順調に編集ができるようになり、平野俊夫先生に編集長のバトンを渡した。歴代編集長の尽力により、News Letterは定着し、内容も好評である。最近少し気になるのは、話題性には富むが、会員の情報提供が少し薄れている点だ。

 編集長といえば、第5回国際免疫学会の際、「Immunology Today」誌が日本の免疫学を紹介する特集号「Immunology in Japan」を組んだ時、山村先生から編集長をまかされたのもなつかしい。浅学菲才の37歳。断ろうとしたが、山村先生は「Yes or Noではない。あるのはYesのみ」と言われた。「日本の免疫学の歴史」を書いて、山村先生にお見せすると「だめだし」であった。濱岡利之教授の知恵をお借りして最終原稿を仕上げた。その原稿が「大変よく書けている」と言われたときは、天に上る思いだった。

 会長時代にバーゼル免疫学研究所長を務めた、バーゼル大学のフリッツ・メルヒャー教授を日本免疫学会の名誉会員に推挙したのも記憶に新しい。大変な親日家であり、多くの研究者がバーゼル免疫学研究所でメルヒャー所長にお世話になり、若き血潮を燃やした。日本の若手育成に大きく貢献された。毎年5~10人の若手研究者に「Ursula and Fritz Melchers Travel Award」。若手研究者が日本免疫学会学術集会に参加するための旅費を提供するなど支援して下さるすばらしい研究者である。

  • 免疫学会への期待

 1970年代から80年代にかけて、免疫学会は数ある生命科学の学会の中でも自由闊達に若手研究者が活発な議論を繰り広げ、会場は熱気にあふれていた。日本の生命科学をけん引してきたといっても過言ではない。免疫学が解明した生命現象の原理や方法が他の分野に大きな影響を与え、生命科学の発展、医療への応用の礎になってきた。そしてこれからもそのポテンシャルは大きい。

 免疫学研究を志向する学生・若手研究者のために、討論の場を提供し続け、若い人を自由に泳ぎまわせる努力を継続してほしい。できる限りの支援を惜しまないことが大事だ。

 若手研究者は着実に育っている。基礎と基盤を固め、焦らずに研究を進めることだ。基盤研究なしに応用研究はない。ただ、最近の若手は海外に行きたがらないという。国内で要が足りてしまうということもあるが、海外の研究者との交流を盛んにして、ネットワークを築き、共同研究を積極的に展開してほしい。それを後押しするのが学会の役割だ。実験も自分の手を動かすことが大事なように、人間同士も実際に会って交流するのが大事だ。諸外国の研究者と会うと習慣や考え方の違いが分かる。多様な考え方、価値観に接することで、変な自信もなくなり謙虚になれる。新型コロナウイルス感染症の蔓延で難しくなっているが、知恵を絞って国際ネットワークを築き、それを継続してほしい。

 免疫学の醍醐味は、生体制御や生命現象に関し、俯瞰的な見方ができることだ。生命現象の不思議をなぜと考える学問だ。外来分子や寄生体から守るバリアの機能を分子生物学的に解明すること、ビタミンや脂質の作用を栄養学と協働して解明すること、感染症、慢性炎症、代謝疾患、老化、神経疾患、がんなどの発生機構の研究など、やることはいっぱいある。SARS-CoV-2に感染しても、症状ある人とない人の違いは何か、高齢者はなぜ重症化しやすいのか、男性のほうが女性よりも重症化しやすいのはなぜか。まさに免疫の問題だ。ただ、こうした新しい課題の解決に従来の免疫学的な視点だけでは通用しないかもしれない。異分野の研究者と交流し、多くの研究領域と接点をもっていくことが欠かせない。そうした交流を促進するのも、これからの免疫学会の役割であろう。さらなる発展を期待したい。