谷口克会長(1997-1998)

  • 研究の思い出

 新潟県長岡日赤病院長だった親父の影響もあり、医師になるのは自然だった。千葉大医学部を卒業して、循環器内科医になるため国立千葉病院で、当時先進技術だった心臓カテーテルによる心疾患診断技術の腕を磨いていた。そんなときに、医局から週1回派遣されていた木更津中央病院で、運命的な患者との出会いがあった。 

 40代の男性は、首や脇の下、鼠径部リンパ節、肝臓、脾臓が数倍に腫れていた。病理の先輩に診断を仰ぐと、国内3例目となるIgM抗体産生腫瘍である「マクログロブリネミア」だった。授業ではまともに学んだこともない抗体というものの存在を知り、初めて勉強した。ヒトは約23,000個の遺伝子で作られているにも関わらず、抗体だけで1兆種類もの多様性を生み出すその不思議さに魅かれ、内科医を断念し、免疫学を志した。日本免疫学会が発足する2年前の1969年のことだった。

 1970年に千葉大大学院に進学し、本格的に免疫研究を始めた。当時免疫学教室はなく、遷延感作実験で有名だった病理学岡林篤教授の研究室に入った。その年の末に米コロラド州デンバー小児喘息研究所免疫部長だった石坂公成先生の下でIgE抗体発見に貢献した多田富雄先生が、アメリカ留学から帰国した。

 私が最初に取り組んだのは抗体親和性が成熟するメカニズムだった。どうして免疫後時間を経るにつれて抗体が成熟し、抗原への親和性が強くなるのか。大阪大の内海爽先生から抗体親和性測定の技術を学んだ。あるとき、多田先生が、「抗体親和性成熟にはT細胞が関与しているのではないか」と提案。先生は、研究を概念から構築する人だった。実際、免疫したあと胸腺を取り除くと、抗体の成熟は起らなかった。のちに、この研究成果は、野口英世が日本人として初めて論文を載せた「J. Exp. Med.」誌に発表できた。

 この論文発表前の1972年10月に、イスラエル・ワイズマン科学研究所で開かれたWHO免疫ワークショップに世界16人の若手研究者の1人として参加した。その年の5月30日、イスラエル・テルアビブ、ロッド空港(現ベン・グリオン国際空港)で日本赤軍によるテロ「テレアビブ空港乱射事件」が起きたばかりだった。

 我々の飛行機は午前3時にロッド空港に到着したが、外れの空き地に駐機。いきなり拳銃を手にした治安当局の部隊数人が機内に入り、パスポートと手荷物を膝に乗せ動かないこと、「従わないと命の保証はない」と言われた。一人ずつ機外で荷物チェックされ、カメラを見つけると自分に向けてシャッターを押せという。空港を出たのは、到着から6時間後だった。。

 ワークショップ開催期間中に、抗体の構造解明でロドニー・ポーターと、ジェリー・エーデルマンのノーベル賞受賞決定の知らせが届き、参加者の中にいた彼らの弟子と一緒にパーティ-で祝うなど盛り上がった。はるばる日本から来た若者にということなのか、講師であったニールス・ヤーネ(1984年免疫制御機構の理論確立でノーベル受賞)と主催者のマイケル・セーラから昼食に誘われ、3人で研究中の抗体親和性について議論し、その後の研究に大いに役に立った。

 1976年にオーストラリア・メルボルンのWEHI (Walter and Eliza Hall Institute)に留学。ハイブリドーマ技術をいち早く習得し、帰国した。このハイブリドーマの技術を使えば、個々の細胞の特性を解明できるのではと考えた。そこで、抑制機能を持つT細胞ハイブリドーマを13株作ることに成功し、それらがどんな抗原受容体α鎖遺伝子を発現しているのか、3種類の異なる制限酵素でDNAを切断して解析した。当然異なるDNAバンドがでることを期待したが、全て同じパターンだったのだ。多田先生の影響か、こんな時、私はこう思うようにしていた。

「常識を覆す実験結果が得られたら、それは、大発見に違いない」と。

 13株のハイブリドーマから、まず受容体α鎖遺伝子をクローニングすると、4種類に分類されたが、どれもVα14とJα18遺伝子で構成されていた。奇妙なことに再構成で生じるVJ結合部のN領域は1塩基で、それぞれA、T、G、Cが入るだけの違いだった。しかも、それはグリシンの3番目のコドン(GGX)に相当する位置で、どの塩基が入ってもグリシンになる。つまりアミノ酸配列としては同一のもので、唯一の受容体だった。さらに、同定したVα14受容体遺伝子は、これまで報告がない新規遺伝子であった。

 1986年に発表したこのNKT細胞の唯一の抗原受容体Vα14Jα18を発現している細胞は、後にNK(ナチュラルキラー)受容体と、”T細胞受容体”を同時に発現していることから、第4のリンパ球である「NKT細胞」と命名した。

 ただし、この発見を生体内の生理現象であることを確認するために、免疫していないマウスで確かめることにした。当時、それができるRNAプロテクション法という技術を使用していた研究室は、世界で2か所。その一つが、スイスバーゼル研究所からマサチューセッツ工科大学に移っていた利根川進だった。快諾を得て、大学院生の古関明彦を送り出した。

 驚いたことに、Vα14Jα18遺伝子の組み合わせは生体内で選択されて出来た遺伝子ではなく、発生初期からこの遺伝子の組み合わせだけが出現し、しかもNKT細胞だけに使用されている受容体遺伝子で、その発現を、ラボマウス23系統で調べると、すべてのマウスでほぼ同じ頻度で発現していた。すなわち、正常マウスでも、その発現頻度は、全α鎖の2~4%を占め、常識を超えて大量に発現していることがわかった。これで、T細胞、B細胞、NK細胞に次ぐ、第4のリンパ球であることが確実となり、1990年に発表した。

 その後、NKT細胞欠損マウスや免疫系にNKT細胞しかいないマウスを作成することに成功し、NKT細胞の研究は一気に進んだ。NKT細胞は、自然免疫系であるToll様受容体からの刺激によって活性化され、獲得免疫系へと橋渡しを担う。NKT細胞が欠損すると、感染防御、がんやアレルギーの制御、移植免疫寛容の維持ができなくなるだけでなく、「免疫の長期記憶を誘導する」事ができなくなる。さらに、Vα14受容体は、進化論的には特定の種分化においてダーウイン選択を受ける免疫系受容体では唯一のもので、種の生存に関わる重要な働きをしており、免疫系の根幹をなす細胞だったのだ。

 さらに、ヒトとマウスでもこの受容体の抗原認識配列はほぼ同一であること、その抗原はたんぱく質ではなく、「アルファガラクトシルセラミド」という糖脂質であることを1997年に発見。この糖脂質によって、生体内NKT細胞を活性化し、免疫記憶を誘導できる点において、薬剤として使用できることを意味していた。

 がん細胞は自分由来であるため、NKT細胞を活性化するアジュバント物質を持たないため、がん免疫記憶は出来ない。しかし、患者体内のNKT細胞を活性化すれば、がん免疫記憶が誘導され、がんに対する持続的な攻撃が可能になり、がんの再発・転移を防ぐことができると考えた。末期肺がん患者を対象に医師主導型の臨床研究をスタートさせた。樹状細胞にアルファガラクトシルセラミドを取り込ませて、患者に戻し、NKT細胞を体内で活性化し、免疫記憶を作る。6割の患者で、平均4.6か月の生存期間が、31.9か月まで延びた。残る4割も9.6か月だった。2009年に成果を発表し、2013年では頭頚部がんの臨床研究でも同様の結果を得た。このNKT細胞の発見を、2014年米国免疫学会は、免疫分野で新しい道を開いた業績として「Pillars of Immunology」に認定した。

 

 NKT細胞の活性化によって免疫記憶がどのくらい続くのか、今は関心がある。免疫記憶効果は50年続くBCGワクチンから、1-2週間しか続かない腸炎下痢ワクチンまで多様。がん種によってもどう異なるか関心がある。改めて免疫は面白い。免疫学者になって楽しい人生だった。

  • 免疫学会の思い出

 1970年日本免疫学会の設立当初から参加した。大阪大山村門下の尾上薫先生と研究を共にしていた若手研究者岸本忠三先生が、IgMの研究発表をしていた光景がまざまざと昨日のように目に浮かぶ。免疫学において日本の研究者が多数貢献しているのは、この学会の存在は極めて大きい。国際発信し、若手育成に力を入れてきたからだ。

 1983年、日本免疫学会が、京都で開かれた第5回国際免疫学会を主催した。会長は、二度目の日本免疫学会長に就任した山村雄一先生。多田富雄先生がプログラム委員長を務め、世界から4000人超が参加し、T細胞抗原受容体遺伝子の発見など画期的な成果が報告された。

 その翌年、山村先生は、さらに国際交流を推進するため、国交を回復してようやく科学研究が緒に就いたばかりの中国に、日本免疫学会の代表団を送り込んだ。山村先生のほか、尾上薫、岸本忠三、浜岡利之の各先生の中に私、谷口も名を連ねた。

 空港に着くと山村会長には、高級車「紅旗(こうき)」が用意され、北京空港から市内までの道路の交差点は、信号が赤でもすべてノンストップで目的地まで行け、国賓並みの扱いを受けた。自由時間に天安門広場、故宮博物館へ観光に訪れた我々若輩にも「紅旗」を用意する厚遇ぶりで、天安門に着くと、どこから来た要人かと人だかりができた。

 当時、中国は文化大革命(1966-76年)から日が経っていたにもかかわらず、全員人民服を着ていた。講演会には、多くの人が参加したが、年配の人が目立っていた。知識人が地方に追いやられる「下郷運動(かきょううんどう)」の名残かと思った。

 1997年、私は第10代日本免疫学会会長に就任した。若手育成に力を入れたいと、翌1998年「免疫サマースクール」を始めた。学部学生や研究を始めたばかりの若手研究者を集め、学会を牽引する10人ほどの講師の講演と2-3日間語り合うもので、若手参加費の半分は学会持ち、講師らは全額自己負担。当初、難色を示していた講師も今では、若手に恩返しできる場と喜んで参加している。このサマースクール参加者を対象に、実際にラボで体験させる「免疫サマーインターンシップ・プログラム」も好評で、今日に至っている。特徴は国内だけでなく、海外のラボにも滞在できるユニークな育成プログラムになっている。

 学会長任期中の1998年に、突然、大蔵省から呼ばれ、日本における免疫・アレルギー分野の研究の現状を聞かれた。日本は免疫学分野で世界に貢献していること、国民病ともいわれるアレルギーなどの研究に免疫学は不可欠なことを強調した。

 その数年後の2001年に、理研に免疫・アレルギー科学総合研究センターが設立された。免疫学分野が国策の重点分野に位置づけされた。私は初代センター長に就任し、年1回開催のアドバイザリーボードには、国内外の国際的に著名な研究者を招聘し、的確な研究アドバイスを得る仕組みを構築した。それにより、画期的な成果が相次ぎ、免疫学分野における論文のインパクトファクターによるランキングは、世界3位を維持することができた。

  • 免疫学会への期待

 日本の科学力の低下が叫ばれているが、科学技術予算の確保など影響力が大きい人が、発信してほしい。何しろ科学研究費採択率は、近年増えたと言っても27%と低い。今の予算の枠組みに、若手研究予算が出来たが採択率は40%程度で、多くの若手研究者は科研費を獲得できていない。若手研究費の占める割合は、まだ全体の15%以下であり、若手に多くの研究費が回るような仕組みを作っていかなくてはならない。

 先ほども触れたが、日本免疫学会は若手育成に焦点を当てている。これは続けてほしい。免疫を志す研究者も減少しており、広く国民に免疫学の重要性や面白さを訴えていくことも大事だ。その意味で、科学コミュニケーションの一環として、学会が、日本科学未来館で毎年開催している展示・体験型イベント「免疫ふしぎ未来」はとてもいい。こういうイベントによって、小さい子供が免疫の不可思議や、面白さに触れてもらうことが、長期的にはとても大切になってくる。 

 岸本先生が若手研究者を支援する基金を設けているが、日本は寄付文化が貧弱。日本免疫学会が中心となり、一般の人に免疫研究の重要性を知ってもらい、国が科研費を用意できないなら、寄付税制の見直しを含め寄付文化を浸透させるようなことも必要である。時は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19 )が世界に拡大した。免疫学の出番であり、英知を結集して感染症の鎮静化に立ち向かわなくてはならない。今がその時だ。

 最後に若手研究者にいいたい。若い人は、どんどん海外に行ってほしい。見ず知らずの人と、感性豊かな時期にディスカッションすることはいい刺激となる。日本免疫学会は、若手研究者が海外で活躍できるように支援していくことが欠かせないだろう。