山村 雄一会長(1971-1974)

  • 山村雄一先生の思い出(岸本忠三先生インタビュー)

「免疫学会の祖、研究と人を育てる」

 

 山村先生は、日本の免疫学会の祖と言える。研究を発展させ、人を育てた人生だった。

 大阪市で生まれ、太平洋戦争の開戦と同時に大阪大医学部を卒業。海軍の軍医(中尉)としてマレー半島、フィリピン、パプアニューギニアで従軍した。

 戦後、国立療養所刀根山病院に勤務しながら、阪大理学部で生化学を学んだ。この経験が臨床医として患者を診ながらも、基礎研究も大切にする先生の精神的支柱となった。

 刀根山病院では、「結核」の研究に没頭した。最大の業績は、国民病といわれた結核患者の肺の空洞は、結核菌が原因でなく、免疫のアレルギー反応でできるということを突き止めたことだ。ネズミに死んだ結核菌と、生きた結核菌をうって反応を調べると両方とも空洞ができた。結核菌のリポ蛋白が抗原となり、遅延型アレルギー反応を起こしていた。アレルギーなどの自己免疫疾患、サイトカインストームなど免疫の過剰反応が病気をおこしたり、悪化させたりするという今日的な研究につながる成果でもある

 1957年九州大医学部教授(生化学講座)に赴任し、1962年に阪大第三内科教授として母校に戻った。

 通常、第三内科といえば、結核以外にも循環器、消化器、神経、血液など内科全般の疾患を扱い、診察が中心だが、免疫学、生化学など基礎研究を重視し、基礎と臨床が一体となった教室づくりに取り組んだ。

 山村先生は、医学部長、学長などで阪大を率いただけでなく、免疫化学研究会と免疫生物学研究会が統合し発足した日本免疫学会の初代会長(1971-76年)のほか、日本内科学会会長、日本アレルギー学会会長、日本癌学会会長、日本胸部疾患学会会長、日本結核学会会長などを歴任するなど、日本の臨床免疫研究を文字通りけん引した。東大出身者がトップを務めることが多い医学界で、阪大出身でいくつもトップを務めたのは類まれな人間的な魅力があったからだ。

 1983年京都で、国内で初めて開催された国際免疫学会の会長を務めた。そのために日本免疫学会の会長に再登板した。東大の多田富雄先生がプログラム委員長、京大の花岡正男先生が事務局長を務め、オールジャパンでの対応だった。約4000人京都国際会議場の日本庭園で行われたパーティでの山村先生の心温まる会長スピーチは心に残るもので、“Immunology Forever”と描かれた仕掛け花火とともに参加者の思い出となった。会議自体もアメリカなどで流行したAIDS(後天性免疫不全症候群)の症例や、T細胞レセプターのクローニングに関する報告など最先端のホットな話題満載の学術集会となり、好評だった。この時の貴重な経験は、半世紀を経て2010年に神戸で開かれた国際免疫学会に生かされたといえる。

 山村先生は、免疫学と深く関わるアレルギー疾患の啓蒙のため、アレルギー協会の設立にも尽力した。経団連の援助を受け、厚生省所管の財団法人として、一般の人へのアレルギーに関する知識の普及、啓発事業、さらには研究助成などを行う団体で、協会長も務めた。今日の国民病とも言われる花粉症などのアレルギー疾患の啓もうの礎を築かれた。

 臨床医でありながら基礎研究をとても大切にし、免疫学の方向性をしっかり示した。抗体の構造解析などの免疫化学からスタートしたが、T細胞、B細胞の関係が重要であるとわかると細胞性免疫に、そして1980年代になり分子生物学の手法を生かした遺伝子解明が免疫学には欠かせないと、その潮流を見極め、流れに乗った。

 その代表的な例が、大阪大に細胞工学センターを1982年に創設したことだ。ウイルスの働きで異なる細胞が一つになる細胞融合現象を発見した岡田善雄教授や、ヒトの全遺伝子情報解読(ヒトゲノム)計画の日本代表を務めた松原謙一教授らを集めてスタート。1983年には。世界で初めてインターフェロン遺伝子をクローニングした谷口維紹・癌研究会癌研究所生化学部長を教授に招いた。当時、癌研の菅野晴夫所長を説得したのは山村先生だった。遺伝子ハンティングという異名をとった谷口氏はその後もIL-2クローニングにも成功している。

 「いい人を見つけたら引っ張ってくる。自分よりいい、優秀な奴がいないと研究は発展しない」とよく言っていた。

 逆に別の研究所に行くときは引き留められた。私(岸本)は、そういう場面が3度あった。最初は京大、2度目はスローン・ケタリング記念がんセンター、そして3度目はIL-6やIL-6受容体を発見した後の1989年のハーバード大。論文引用件数が世界の研究者のベスト10に入ったころで、ハーバード大学からChair Professorという、とても研究環境も待遇もいい条件を提示された。心が動かされ、ほとんど行こうと思って、最初に山村先生に話した時、「皆が帰ってくるとき、アメリカへ行ってしまうんか。日本でお金を出してお前を育てたのに行ってしまうんか」と言われた。1985年に退官された山村先生は、胃がんを発症され、再発してとても体調の悪い時だった。それでも交渉のため何度かハーバード大に行ったが、先生の言葉が頭に残っていた。

 「大阪におったら岸本は1人。でもハーバード行ったら岸本は何人もおる」とハーバードの友人に言われて思いなおし、3度目の訪問した時、契約直前にキャンセルした。この時と同じことが、後に阪大のWPIの免疫学フロンティア研究センター拠点長となる審良静男君が、京大に引き抜かれようとしているとき起きた。審良君に対し自分のハーバード大に誘われた時に、山村先生に言われたことを話した。彼は、最終的に阪大に残った。

 山村先生は、豪放磊落な一方、細やかなところに気づく人だった。人を見る目があり、人を育てる人だった。

 「上の奴は蹴っ飛ばしていいが、下の奴はかわいがれよ」

 「鉛筆を削るには、『名刀正宗』はいらない、「肥後守」(和式折りたたみナイフ)があればいい。人間には持って生まれた才能がある。それをしっかり見抜いて、育ててやれ」

 「ノーベル賞級の研究をしても、教科書に一行しか載らない。しかし人を育てたら、その人が次の人を育て、自分の考えが拡大されて伝わっていく」

などと言われた。

 とにかく面倒見はよかった。

 駆け出しのころ、耳下腺の腫瘍ができて、顔が腫れた時に、神経が交差している部分なので顔がゆがむかもしれないと手術に逡巡していると、病室にやってきて「俳優になる訳でもないだろう。少しくらい顔がゆがんでもしょうない。命が大事なんだ」ときっぱり言われた。結果的に何もなかったが、とても弟子思いと思った。

 「真髄を付いた研究は、必ず人に役立つようになる」という先生の言葉は今も頭に残っている。それがIL-6、IL-6受容体をもとにして開発されたアクテムラにつながった。

 私(岸本)は、山村先生に似ているとよくいわれる。それはそれでうれしい。審良君ら弟子が活躍するのはうれしい。山村先生が礎を築いたこの伝統が続き、日本の免疫学を世界にアピールしてほしいと願っている。 

  • 山村雄一先生の思い出(平野俊夫先生インタビュー)

 私の免疫学研究は、まさに山村先生と出会いから始まった。

 私の最も好きな言葉で、山村先生の名言に「夢見て行い考えて祈る」というものがある。

研究者は大きな夢を持って、その夢のもとに研究を実行する。すなわち1枚のカードをめくっていくのである。そのめくった結果、事実について正確について考える必要がある。この順番が大事と解釈している。すなわち、まずは行動して、考える、あとは神のみぞ知るということなのだろう。正確な実験をして、事実を事実として観る心の目が重要である。その先にセレンディピティがあるということなのだろう。

 もう一つ忘れられないのが、1989年に大阪大教授に就任し、病室を訪ねた時にいただいた色紙だ。

 「樹はいくら伸びても天まで届かない それでも伸びよ天を目指して」

 学問、スポーツでも成長や努力はエンドレスということである。人を元気にさせる、その気にさせる人だった。交友関係も幅広く、1990年に亡くなった時に、司馬遼太郎さんが弔辞を読んでいた。大学だけでなく、日本全体を見渡し、行動に移すスケールの大きい人だった。